百合の共鳴

以下の内容は昨年6月に発行された『同志社大学百合同好会会報誌Vol.4』に寄稿したものである。


1.コントラストと融和


 作品にとってコントラストは不可欠な要素であると思う。ここでいうコントラストとは、対比および対照ならびに差異と定義しておく。作家ではない私が作品論に言及するのは刹那のむず痒さがあるのだが、ここは私にとっても譲れない部分になる。それは百合作品にも共通していることであるように思われる。コメディとシリアス、ファンタジーと日常、過去と未来、憎悪と愛好、失望と期待、嫉妬と憧憬、孤立と連帯、エロスとアガペー。作品のジャンルから関係性まで至る所にコントラストが散りばめられている。

 私はそういった多様な百合作品の中でも、人間に内在されている陰と陽が入り交じり、対立と融和を繰り返すようなコントラストに心を掴まれる。例えば、悲観的な思考回路を持ち合わせている人は、自己肯定感が高く成功体験だけで人格が構築されている人を受容しにくく、場合によっては一方的に劣等感や嫌悪感を抱くことがあるため、このふたりは互いに混ざり合いにくい。この境目を打ち破るような衝撃的な出会いや体験を経て、水と油のような関係が次第に乳化していく。お互いを知っていくほどに陰と陽は界面を失っていき、表裏一体な存在でありながらも共通した種であることに気が付く。そしてふたりは合一的な存在となり、ふたりがひとりとなるのである。しかし、各々が個として存在している限り本質的な合一には至らない。ふとした瞬間、ひとりはふたりであることに気が付くのである。一見すると乳化していたようで、それは一時的な現象に過ぎない。そして、界面を隔ててすぐそばに存在し続ける陰と陽は、また微々たる変化によって形を変容させていく。人間と人間は、同じ性質同士が引き合い、異なるものに反発する磁石のような単純な関係性であることは稀で、先述したように合一と解離を繰り返しながら関係を育んでいくものだと思う。その過程で、友愛や性愛などの愛や、嫉妬や憧憬、失望と期待などの感情が表現される。私はこれらのコントラストがつくり出す人間が秘めたる内部を、百合という関係性から感じ取っているのだと思う。
 

2.魂の共鳴で切り取る


 私は個人のセクシュアリティ、ジェンダー、外見という個性の交わりから生じる関係性ではなく、人間に内在する魂(心・性格・価値観等といった人間に内在する概念全てを統合したものとして扱う)の合一・共鳴を観測したいのかもしれない。ある片方が相手の魂に間接的に触れることで、もう一方にも何かしらの作用をもたらす。これを私は人間同士の魂の共鳴と呼びたい。百合という関係を愛すなわちアガペーにのみ存在し得ると考える場合に、これを適用することは難しい。もちろんそのようにメインシステムの定義をおいて、百合を愛している方のことも尊重している。そこで私は、百合とは魂の共鳴を含む関係性であるとサブシステムに再定義することで、私は作品中に描かれている機微な変化を伴う人間模様を感じ取れることがあると考えている。アガペーという一つの断面で切り取っただけの百合ではなく、あらゆる魂の共鳴を表出できるような断面で切っていきたい。

 魂の共鳴を感じ取ることで、私は人間の内に触れることができると考えている。フィクションである作品だからこそ描くことができる人間の関係性がある。その特定の条件でした観測できないような魂の共鳴がそこにはあるような気がしており、それは女性同士を描くことでしか表出されないようなこともあると思う。あらゆる作品ジャンルを嗜んできた中で、その人間の内に触れられるような魂の共鳴をより強く感じたのが百合であった。人間の内にある多様な感情や成長と挫折のような体験を読者たる私に共感させ、私も同じように魂の共鳴を感じ。外因的に人間の本質に少し近付くことができるような気がしたのだ。

 ここで言う魂の共鳴にはアガペーのみならず、多様な形の愛も含まれており、それ以外にも嫉妬や憎悪、失望といった負の感情などあらゆる要素をも内包している。念のため触れておくが、ここで私が言いたいのは百合にジェンダーの前提が不必要だということでもないし、性的指向が無関係ということでは全くない。これらの要素を描くために、女性同士を起点にする方が扱いやすいなどという蔑視も決してしていない。百合に対して、女性同士の関係性を特別視しているようなホモフォビア・ヘテロセクシズムの立場で論じているわけでもない。ただ私は百合を通じて、人間が持つ人間性の基礎たる魂の描出を味わっているのである、という一点のみだということを理解していただきたい。

3.あとがき ――矛盾を融和したい


 では何故私が女性同士の関係性を描く百合作品を好んで読み、このような魂の共鳴を感じ取る手段として選択しているのだろうか。私にとってこの問題は、百合の定義を明文化することよりも困難を極めると思われる。この問題に直面する度に私は自我の深層まで掘り進めるのだが、いつも決まって百合と距離を置きたくなってしまう結果に行き着いてしまう。百合を好きでいることと、百合評論を書くことには相容れないものがあり、いつまで経っても共存することができないのである。これ以上、私の唯一の楽しみである百合を私自身が奪いたくないため、今回はここで筆をおくとする。


――さらにあとがき


先ほどのあとがきまでが寄稿分である。今読み返しても寄稿文ではなく気の狂った文章だと思う。
編集の方は頭を抱えたことだと思う。こいつは何を言っているんだと。
当時即座に解説文を書いて投稿しようと思っていたのだが、さほど批判もなく(もはや読む気すら起きていない)誰も読んでないなと安心して出すのをやめてしまっていた。
それと同時に最後に書いた通り、百合作品と距離を置こうと思ってしまったのだ。ここで筆をおいたとあるのだが、本当にこの文章を投稿して以来、毎週末の日課であった百合論考用の原稿を書くのをやめてしまった。
何故僕は人間の魂の共鳴を味わうのに女性同士の作品を好んで読むのか、という原点に立ち返ったときにネガティブに考えてしまい自分を嫌いになってしまった。
百合論考の企画を立ち上げて先日参加者を締め切ってからはそんなことも言っていられないなと振り切れてからは全て元に戻ったのだが。

さて、どこから解説を始めていこうか。
まずはここだろうか。

ふたりは互いに混ざり合いにくい。この境目を打ち破るような衝撃的な出会いや体験を経て、水と油のような関係が次第に乳化していく。


水と油は本来混ざり合うものではない。オイルが含まれているドレッシングを思い浮かべてほしい。いつも隣にいながらもそれぞれ境界を隔てて混ざり合うことはない。しかし一度振ってしまうと途端にその境界が壊されて少しずつ混ざり合っていく。そんなことが人間同士にも起こる、と言ったことを伝えたいのだと思う。たぶん……

お互いを知っていくほどに陰と陽は界面を失っていき、表裏一体な存在でありながらも共通した種であることに気が付く。


水と油から急に陰と陽に変わった。改めて見ても酷い文章だと思う。
厳密に言うと水、すなわちH2Oは陰陽どちらも共在している。温度やpH、共にいる存在によってどちらかに傾くという表現が正しい。なんなら油といるのだから疎水性相互作用とか双極子誘起効果によって陽に傾いているのではないだろうか。油も然り。
しかしここでは化学的な話は置いておいて、悲観的な思考回路を持ち合わせている人と、自己肯定感が高く成功体験だけで人格が構築されている人とを比較して、前者を陰、後者を陽としているだけである。さらに前者を水、後者を油としている。油は誰とも混ざり合えないし陰キャじゃないの?と思われるかもしれないが、実は化学的に見て水よりも圧倒的に油の方が溶解できるものは多い(と有機化学畑出身の人は思う)。油はその辺のステアリン酸とかラウリル硫酸とか何でも良いのだが、基本的に親水部と疎水部の両方を持ち合わせているため、色んな人と仲良くすることができる(化学的な話を置いておきながら化学に戻っている)。水は陰キャで油は陽キャ。これはあくまでも僕の超個人的見解である。なのに解説もしていないのだからたちが悪い。

そしてふたりは合一的な存在となり、ふたりがひとりとなるのである。しかし、各々が個として存在している限り本質的な合一には至らない。ふとした瞬間、ひとりはふたりであることに気が付くのである。一見すると乳化していたようで、それは一時的な現象に過ぎない。

合一って精神性の話のように思えて化学的(たしか界面化学とか?)にもある。が、専攻が微妙に異なるし、ここで言う合一とは少し意味合いが変わってくるためここでは省く(じゃあ挙げるな)。
ここの話は怪文書の中でも比較的伝わりやすいと思う。ズッ友でもふとした瞬間に距離を感じたり、自分とは違う人間なんだなと感じるアレである(適当)。
ひとりとひとり、のふたりであった存在が、互いへの愛を通じてひとりという存在になる。どっかの哲学だか心理学の本で出てきたような話である。人間はその生存本能から肉体的にも精神的にも合体による充足感を得ようとする。それは狩猟生活を経てきた動物として、集団から外れる孤独から逃れたいからである。ハグすることによって内分泌のバランスが変わって副交感神経優位になるというのも頷ける。
さて、乳化が一時的なものというのには再びドレッシングが良い例えになるだろう。一度振ったからといってもまた30秒くらいしたら元通りになってるなんてことはよくある。少し衝撃を受けたくらいでふたりがひとりになっていても、いずれひとりとひとりにまた戻ってしまうのだ。

そして、界面を隔ててすぐそばに存在し続ける陰と陽は、また微々たる変化によって形を変容させていく。人間と人間は、同じ性質同士が引き合い、異なるものに反発する磁石のような単純な関係性であることは稀で、先述したように合一と解離を繰り返しながら関係を育んでいくものだと思う。その過程で、友愛や性愛などの愛や、嫉妬や憧憬、失望と期待などの感情が表現される。私はこれらのコントラストがつくり出す人間が秘めたる内部を、百合という関係性から感じ取っているのだと思う。



ここは正直どう解説したら良いのか自分でも難しい。正直放棄したい。というか放棄する。

さらに『2.魂の共鳴で切り取る』も解説は無しとしたい。解説が必要だなと漢字ながら書いていたのは『1.コントラストと融和』であったからだ。それもまた怖い話なのだが……今読んでも2章も十分分かりにくい。意味が分からない。他人に読ませる気がないとしか思えない。世の中の人はどうしてあんなにも分かりやすい文章を書けるのだろうか。不思議でたまらない。



さて、そんなこんなで適当な解説を終えたのだが、この文章は百合論考vol.01に向けた文章を書き始めた後に書いたものである。そのため実はそのvol.01で出す予定だったものの続きみたいになっているような気がする。
そしてそのvol.01用の文章は半年ほど何も書き進めておらず、参加者も十分に集まったので自分は書く必要がないなと思って今日まで放置していた。
しかしこう自分の文章を改めて読むと未完成な部分が多く、もっと上手く書ける、自分が伝えたいものは書き切れていない、と悔いること同時に高みを目指したくなってしまう。
未完成の原稿に目をやると、思ってた以上にスラスラと指がキーボードを叩いた。
もし間に合えばvol.01に自分も投稿できたら良いな、そんなお話。
noteの記事は溜まりまくっているため、3月までに少しずつ開放していきたいと思う。

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