無知は恥になり想像力の欠如は罪である
それなりに大人になりつつあるのだが、25歳が近付くにつれて無知であるということが怖くなる。
哲学が趣味というか単純に好きで古典的なものから現代のものまで読むのだが、かのソクラテス先生は『無知の知』という有名な言葉を残している。
この言葉を読んでその意味を知ったとき「自分が無知な事なんて分かってるし知ったかぶりする人より賢いのは当然だが、本当に知識を得てる人と比べて劣っているに決まっている」と感じた。
つまり『無知の知、しかし無知は恥となる』という結論に素人目線で至ってしまったのだ。
これは現代における閉鎖的なコミュニティーとマジョリティーの盲目的な集団心理の考え方が礎にある。
マスメディアであるテレビの情報番組は当然のように『今大人気の俳優/モデル』と言って芸能人を紹介しているが、私はその大人気の渦中にいないことの方が多い。
しかし彼らを迎える番組に出ている芸能人はこぞって驚いたり喜んだりする。それが本物か作り物かは別として。
彼らと僕の間で感情のズレが生じており、マスメディアが繋げている全国民の鏡をしている芸能人たちを見て、そこで私自身に対して集団心理からくる焦りが生じる。
これこそが『無知の恥』であると感じた。
現代では「こんなこと知ってて当然。知ってるよね?」というような知の圧を感じることが多い。
『あのモデルさんかわいいよね。男の子だなんて思えない。』
『このグッズは○○のイベント限定で出た物で、今度の△△のイベントではこれの絵違いが出てて…』
『これ前に△△さんが動画で紹介してたやつだ』
分からない。そう、『無知の知』とは知らないことを知らないと思えることなのだ。
しかし現代は知らないことに対して厳しい。「そんなことも知らないの?」と叱責を浴びる。
全てを知っていることが求められている/知っていて当然だという現代社会では『無知は恥』であることとされている。
僕の中には世の中のことを知りたいという欲求が湧いてこない。
いつも知的好奇心が向くのは人間の行動の基盤である心理学や哲学といった人間のコアな部分になる。
世界にどんな人がいるのかではなく、人がどういうものなのかが気になる。
十人十色、と言いながらも結局は世界に人間は70億人かそこらしかいない。
人類史の中で言えばごくごく僅かでしかないし、そのマクロな時点での有限の人を知ったところで知識となるのか疑問を抱いてしまう。
数千年もの間、先人達が築いた人間に対する叡知の結晶である哲学を学ぶことの方が、人を知るという点において無限の可能性と開拓余地のある分野であり、これを知らないことの方が僕にとっては『無知の恥』であるような気がしてならない。
こうした中で僕が現代社会に対して不満を感じる部分が『想像力の欠如』である。
もっとも10年前と比較するとコンプライアンスにも厳しくなってきて、こうした想像力というものを意識して様々な対応がされてきていると思う。
それでもなお、想像力の欠如を感じる部分が多い。
以前の記事にも似たようなことを書いたことがある。
こんな想像力がない人がいるのか、と疑問に思う方もいるだろう。
それはあなた自身が素敵な方で、その周りに形成されるコミュニティもまた素敵な方しかいないのだと思う。
僕は今まで幾度となくこういう言われる側を想像できない発言をする場面に遭遇したことがある。
差別や誹謗中傷を産んでしまう想像力の欠如は罪に等しいと思う。
欠如している人が罪人かと言うとそうではない。
想像力が欠如している人は本当にごく僅かであると思う。
いつもはできていた想像ができないほどの何かがあって人をそうさせてしまう。
罪を憎んで人を憎まずという言葉はあまり好きではないのだが、たぶんそれに似たような感覚だと思う。
人に対する恨みや怒りを吐き出す前に一度、自分の中の想像力が欠如していないか確認してみてほしい。
そう思った今日この頃であった。
あとがき
何書きたいだっけなってなりながら書いてました。
なんなんですかね?
前半のは僕が世の中のことを知らないことに対する言い訳です。
あと芸能人やミーハーな方々に対して斜に構えている感じです。
良くないですね。
あまり真剣に捉えないでください。
冗談で書いてます。
後半はもうなんか怒りを覚えて書き始めたのに少し寝かしたら、何に怒ってたのかすっかり思い出せなくなってましたね。
書きたいこともなんだったのかきれいさっぱり。
久しく文章を書いていないと言語化する力が衰えていますね。
日々、練習あるのみ。
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