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バッドトリップ・ハッピーエンド


1 
 
 CDウォークマンのイヤフォンを外すと、東京から来たという転校生の挨拶が耳に飛び込んできた。その声をソウは『綺麗な声だな』と思った。

『猫町セリです。よろしくお願いします』というその声はか細く小さかったけれど、鈴を転がしたときのような鮮明な響きがあった。深くお辞儀をすると絹糸のような髪がふわりと波打ち、窓から差し込む朝陽を受けてきらきらと輝いた。

 それからソウは『人形みたいな子だな』と思った。すらりと細くて肌は真っ白で、非常によく整った顔立ちをしていたが表情は冷たく凍りついていた。まるで感情がないみたいに。クラス中の視線がセリに注がれるなか、担任が手を叩いて声を張り上げた。
「じゃあみんな、猫町さんと仲良くするんだぞー。そんじゃ出欠は~~……えっと、きょう休んでるのは誰だ?」
 最前列の席の女子生徒が小さく手を上げて答えた。「柏木さんだけでーす」
「柏木かァ」担任は眉間に皺を寄せた。「まぁいい、柏木以外は全員いるんだな。それじゃあ猫町さん、今日のところは柏木の席を使ってくれ、あそこだ」
 担任の言葉にセリはこくんと頷くと、ゆっくりと教室の奥へと進みーーソウの隣の席に座った。髪をかき上げ背筋を正すセリに、ソウは小さく手を振った。
「やっ、よろしく。俺、市ヶ谷ソウ」
 セリはちらりとソウの顔を見たが、すぐに視線を担任のほうへ向けるとカーディガンのポケットからハンドクリームの缶を取り出した。無視かよ。と思いつつソウはふたたび声をかけた。
「あの担任さ、俺が入学した頃は完全にハゲてたのに、日を追うごとにだんだん髪増えてってるんだよな。卒業する頃には初期のX-JAPANみたいになってるかもしんない。どういうメカニズムなんだろうな」
 しかし、なおもセリは黙っていた。そうしてセリはハンドクリームの蓋を開けるとそれを鼻先に近づけて、無表情のままでその匂いをすんすんと嗅いだ。意地になったソウはさらに続けた。
「市ヶ谷って確か東京の地名なんだよな。市ヶ谷って行ったコトある? なんか名産品とかあるワケ? ほら、市ヶ谷のまわし職人が丹精込めて作り上げたインスタ映えする化粧まわしとかさ」
 ソウの渾身の(微妙な)ギャグに対してもセリは無言を貫いた。ソウは溜息をついて思案したのち、セリの持っているハンドクリームを指差すと尋ねた。
「あのさ、そのハンドクリームは何なんだ? 匂いが気に入ってるとか?」
「話しかけないで」セリがぽつりと漏らした。
「……あ?」
 ソウが硬直していると、セリは透き通った瞳を向けて冷ややかな声で告げた。
「私に、話しかけないで」
 そしてセリはふたたびハンドクリームの匂いを嗅いだ。完膚なきまでに拒絶されたソウは頭を掻き毟りつつ、参ったね。と一人ごちるのが精一杯であった。

 休み時間になってもセリの態度は同様であった。ソウだけではなく、クラスの誰に対しても同じだった。目を輝かせたクラスメイトが質問をぶつけてきても無言&無表情を貫き通し、ようやく口を開いたかと思えば『うん』とか『ううん』だとか肯定とも否定ともつかぬ生返事ばかりで、まるきり会話は広がらなかった。
 東京から来た転校生にキャアキャア騒いでいたクラスメイトも、あまりにそっけない態度にたちまち熱が冷めてしまったようで、昼休みが終わる頃にはセリに話しかける者はいなくなっていた。そんな中、意地でもセリの心を開いてやると闘志を燃やすひとりの男がいた。ソウである。ソウはこの日、二十八回にわたってセリに話しかけた。そして二十七回にわたって無視された。唯一返って来たのは「話しかけないで」という言葉だけ。会話がダメなら、と手紙を試みたりもした。
 ノートをちぎって『市ヶ谷ソウ、十六歳です。好きな四字熟語は“悪霊退散”です。よろしくお願いします』と書き、ウォーズマンのイラストを添えたものを手渡してみたがセリはそれを握り潰すとソウへ投げ返した。
 今度は『犬派? 猫派?』と書き、そこから吹き出しを引っ張って日本史の教科書から切り抜いた徳川綱吉の肖像を貼ってみたが結果は同じだった。だが、それでもソウは諦めなかった。『このクラスでこいつの笑顔を一番最初に見るのは、この俺だ』というナゾの熱意がソウの胸の中で燃え上がっていた。

 放課後。
 帰りのホームルームが終わるや否や、教室から出ていこうとするセリにソウは声をかけた。
「猫町さん。ひとりで帰んのか?」
 しかしセリは聞こえていないかのようにすたすた歩き続けた。ソウは席を立つとセリのあとを追いかけた。
「今日はいろいろ疲れたろ、みんなにあれこれ話しかけられてさ。まぁ一番ちょっかいかけてるのは俺だけどさ」
 セリは無言のまま廊下を歩き、階段を降りていく。ソウは大きく溜息をつきながらもその隣へと並んだ。
「なぁ、な~んでそんなに素っ気ないんだよ? 転校初日で緊張してるのかもしれないけど、そこまで頑なにシカトするコトないだろ?」
 ソウがそう言うと、セリは踊り場のところでぴたりと立ち止まった。
「もっとさ、こう……感情表現しようぜ。そんな仏頂面してないでさ、感情を外に出そうぜぇ」
 セリはソウの顔をちらりと上目遣いに見ると、寂しそうな声でつぶやいた。
「……出せないんだもん」
「……あ?」
「とにかく、私に話しかけないで」
 そしてふたたび歩き出そうとしたセリの腕を、ソウは思わず掴んだ。
「おいちょっと待てよ……」
 その瞬間だった。とつぜんソウの視界を何か真っ黒いモノが埋め尽くした。
 それは、蝶であった。
 どこからともなく、突如としておびただしい数の黒い蝶が現れ、それは四方八方へ舞い飛んだ。
「うわーーーーーっ!!」
 ソウは驚きのあまり叫び声をあげるとその場に尻餅をついた。蝶はしばらく宙をゆらめいたのち、やがてシャボン玉が弾けるみたいにぱちんと姿を消した。
「ひゃあ……っ!」
 セリはみじかい悲鳴をあげると慌ててポケットからハンドクリームを取り出し、その匂いを嗅ぎながら逃げるように階段を駆け下りていった。セリの足音が遠くなる中で、唖然としながらソウは呻いた。
「何だ、今のァ……」
 ソウは目をこすり、首を振って、たった今目撃したばかりの信じがたい光景を思い起こしたーーその蝶の群れは、まるで、セリから現れたように見えたのである。

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