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新連載『1000字でわかるすごいひと』第二回 中島花代

世の中には、音楽を作りながら役者さんもこなし、ラジオもやって本も出すというよーな、あらゆる分野で活躍する方がいますよね。星野源さんのことですが。80年代にはそういう人びとは『マルチ人間』なんていわれてたいそう重宝されたワケですが、今回はそういったマルチ人間の中でもひときわ目立つ経歴を持つ、中島花代さんをご紹介したいと思います。

中島花代さんの経歴はすごいものがあります。写真家でモデルで音楽家で現代美術家で舞踏家で、そして何と芸者さんでもあるのです。

1970年にアメリカで生まれ、東京都中野区で育った彼女は、祖父から譲り受けたカメラで写真を撮り始めました。そうして高校生になったとき、友人らと『女子高生通信』というZINEの制作をはじめます。写真とテキストで構成されたこのZINEは、一部の書店やレコード屋で販売され話題を呼びました。当時、サブカルチャー誌として飛ぶ鳥を落とす勢いであった『宝島』で連載されていた青春小説『東京トンガリキッズ』の登場人物のモデルにもなったといいますから、業界内において中島さんの存在がいかに鮮烈であったかというのがうかがえるものです。

高校卒業後、大学に入学した中島さんはパリへ留学しました。幼い頃からバレエを習っていた中島さんはパリでもバレエに勤しんでいたそうですが、『日本人ならば日本舞踊を学ぶほうが自然ではないか?』と思い立ち、大学を中退して、東京の向島で芸者修行を開始します。

そうして中島さんは花柳界で働きながら、サエキけんぞうプロデュースでCDを出したり、TVや舞台に出演したりします。このころ『いいとも』とかにも出てるっぽいです。またジャン=ポール・ゴルチエなどのモデルとしても大いに活躍しました。アニエスべーは中島さんの大ファンであったそうで、中島さんをモデルに起用するだけでなく、ショー用の音楽を依頼したりもしています。

その特異すぎるキャラクターが評価され、1993年には英国のカルチャー誌『ザ・フェイス』の表紙を飾ります。藤原ヒロシ等が強い影響を受け、ファッションモデルのケイト・モスをフックアップしたことでも知られるこの有名誌において、初めて表紙になった日本人が中島さんだそーです。

ほいで、ドイツ人男性との結婚を経て、中島さんは花柳界を引退し、ロンドンへ移住します。このとき実に25歳であります。

それからヴァピッドリーというサイケガレージバンドにヴォーカルとして加入したり、のちにモデル/女優になる娘さん・点子氏を出産したり、ドイツに移住したり、個展を開いたり、写真集を出しまくったり、ヴァネッサ・パラディのカヴァーでクラブ・ヒッツを飛ばしたり、それはもう大変な活躍を見せます。現在も精力的に活動を続けられており、娘さんである点子氏とともに国立劇場で日本舞踊を舞うプロジェクトなどは大いに話題になりました。

あらゆる領域において八面六臂の活躍を見せる中島さんですが、いまこそ再評価を受けるべきであると僕が個人的に思うのは、彼女が30歳のときにリリースしたアルバム『献上(2000)』であります。楽曲毎に別なアーティストとコラボレートしたノイズ〜エレクトロ〜インダストリアル系の作品で、さいきん渋谷の街頭ヴィジョンで話題になった秋田昌美氏ことメルツバウも参加していたりします。中でも『Sala Sala』はいま聴くだに浮遊感のあるヴォーカルと不穏なトラックが高密度で結実しており、たいへんな名曲であると思います。



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