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徳川慶喜の人物像-司馬遼太郎『最後の将軍』

 渋沢栄一を描いている今のNHKの大河ドラマを熱心に見ているわけではないが、最近、昔買って、ほとんど読んでいなかった標題の文庫本を読んでみた。

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 私は茨城県内に住んでいるが、水戸藩出身の慶喜の人間性のようなものについては、あまり知らなかったし、さほど興味があるわけでもなかった。

 御三家の水戸藩主、斉昭の子で、御三卿の一橋家に養子に出され、最後の将軍となり、大政奉還を行った幕末の人物。明治時代まで生きていたが、その後の長い生涯は自分の趣味に没頭したあまりパッとしない人物、そんな漠然としたイメージがあった。
 他には、水戸は御三家なのになぜ将軍が出ないのかな、などと素朴に疑問に思ったことがある程度だった。

 学生時代、美術におけるジャポニスム関連のことを調べていたことがあったので、1867年のパリ万博に関して、慶喜の異母弟に昭武(*この記事の見出し画像は、ドガ が描いたJ.ティソの肖像画の一部分、後者は昭武に絵を教えた)がいることは知っていた。が、その兄の慶喜の奇妙なと言ってよいのか、その人間性についてまで関心を持ったことなどなかった。

 歴史上の政治家としての彼の行動についても、幕末の複雑な動きを隅々まで知るのは難しく、学校が教える日本史の曖昧な知識しかなかった自分が、慶喜に照明を当てて考えてみるなど思いもよらなかった。

 が、司馬遼太郎のこの本によって、歴史上の慶喜の行動パターンが浮き彫りにされ、私の中で人間慶喜もかなり具体的にその像を結ぶようになった。

 以下、この本に示されているいくつかの大事な項目や印象的なエピソード(あくまで司馬遼太郎が記しているもの)をここにメモしながら、取り混ぜて書いてゆこう。

・まず、父の烈公、斉昭。
「女色に卑しすぎた。…将軍家の大奥に入り込み女官を手籠めにしようとさえした。…この大奥の不人気がかれ(慶喜)の政治生命にまでひびいた。」8-9頁

・だが、斉昭は、教育熱心でもあった。慶喜は、正室吉子の子で、江戸風でも京風でもない、水戸の気風のなかで育てられた。

・慶喜の少年時代は、あまり学問が好きでなく、武芸七分、学問三分で、「せめて、五分五分に漕ぎつけられねば水戸の若者とは言えない」と批判されるような生活だった。

・幕府の筆頭老中、阿部正弘は、「幕府や大奥から嫌われている水戸斉昭という危険人物に魅力を感じ、それと提携して国政の難局に処そうという秘謀をもっていた。難局とは海防問題である。」16頁

・慶喜が一橋家の養子になるのは、阿部の思惑と幽居中の身の斉昭の思惑がある意味で一致したからのようであった。

・徳川家の旗本は、紀州・尾張の両家に対するような親しみを水戸家には持たず、『大日本史』編纂の水戸光圀以来、尊王思想の淵源になっている水戸をかなり警戒していた。

 幕府は、やはり水戸を警戒していたのだ。水戸人は御三家の一つなどと今でも鼻を高くしている人がいるが、それではダメなのだ。

・水戸の藤田東湖が江戸にいる高橋多一郎に宛てた手紙。
「おそらくあの御方の御英気、御才気がお身の上のわざわいになるかもしれぬ。英気あればかえって反撥がおこり、おもわぬ連中にお足をひっぱられることになる。今後は御臍のもとに御英気をおたくわえになり、表向きはご謙遜、寡黙を専一になさるようお教え申し上げよ。」28頁

 東湖は、慶喜の英気と才気を早くから見抜き、逆にそれが元で転ばぬよう心配していたようだ。帝王学を授けようとしていたように見える。そして、慶喜は実際、東湖のこの言葉を学び取り、生涯、忠実に東湖の言葉は守ったのかもしれない。

 慶喜は、私が漠然と思っていたようなパッとしないような人物では決してなく、ほんとうはかなり英気と才気を持っていた人物なのかもしれないという予感が、先ずは藤田東湖のこの手紙が示されて、私の興味が次第に呼び起こされて来た。

 実際、世の中というものは、英気と才気に走る人物を喜ばないし、そうした人間を陥れたりもするものだ。東湖の眼はそこを見ていたようだ。

 慶喜が一橋の養子に決定される前、水戸の家老中山某のことを、幕府老中の阿部正弘が、「馬鹿家老だな。裏がわからぬのか」と思った(16頁)という一節など、世の中がちっとも分からなかった一読者たる自分にいい聞かされているようで、まさに先制パンチを食わされたように響いた。(続く)




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