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中村彝が読んだドストエフスキー『虐げられし人々』の一場面 

 この稿は、「中村彝と中原悌二郎の読書メモ」の(2)として書いている。前回は悌二郎とトルストイのある断章と、悌二郎が言及したドストエフスキーの「空想的にまで進んだ写実主義」に触れた。
 今回は、彝がその書簡で述べているドストエフスキーの『虐げられし人々』について書いてみよう。
 彝のこの本への言及は、彼の手紙の中に出てくる。すなわち大正5年1月31日、ほぼ同年齢の彝の支援者であり、芸術愛好家でもあった福島県白河の伊藤隆三郎宛の書簡の中に出てくる。

 その手紙は、始めの方で結婚間もない隆三郎にこう詫びている。
 「御新婚やホネムーンに対しても幾度か御祝い申し上げたいと思いながら、ついそうした晴れやかな気分になれなかったので失礼して居りました。然しあなたはきっと私のこの心持には同情して居って下すったことと思います。」

 そして彝は俊子との恋愛にかかわる事件は「その後益々難渋を極めて居ります」と語りだす。特に俊子の母である黒光の「感情程世に恐ろしいものはない」としてその感情を「悪魔的」と述べ、「皆その毒素にあてられて倒れている」というのであった。
 黒光の幼子・哲子(ソフィア)の死、黒光の夫・愛蔵の「兄よめ」(「内縁の妻」)の死、(黒光の若い燕と噂される)早稲田の「哲学者」桂井の死、みな黒光の犠牲者だと彝は書いている。もちろんこの半年の自分もそうだと、そうした文脈の中で次のように書いている。

 「丁度あの悲惨な爆発があってから、もう半年になります。あの虐げられし人々の『ワーニア』、『ナターシャ』は一週間の間に死に瀕しました。世に恋愛的妄想程恐ろしいものはない。私も今少しで危うく死ぬ処でした…『只一言』・・・これを乞い願って自分はどんなにぢれてぢれてぢれぬいたか知れません。多少でも恋愛に経験のある人ならこの心持が分からない筈はありません。」

 さて、彝がここで書いているドストエフスキーの『虐げられし人々』におけるワーニャとナターシャが「一週間の間に死に瀕した」場面とはどこだろうかと探してみた。

 だが、実際探してみると、そうした直接的な表現は『虐げられし人々』の文中には見当たらないのではないかと私は思った。
 では彝は単に自分の恋愛事件が「難渋」を極め、「私も今少しで危うく死ぬ処でした」ということを言うための導入として、誇張してあのワーニャとナターシャとが「一週間の間に死に瀕した」と述べたのであろうか。

 が、ドストエフスキーの『虐げられし人々』をよく読んでみると、そうとも言えないということが分かった。

 『虐げられし人々』の語り手でもある主人公のワーニャ(イワン)は、小説家と画家という違いはあるが、彝と同じく次第に世に認められつつある、しかも、おそらく同じ病をかかえた芸術家であり、彝が黒光の娘・俊子を愛していたように、幼馴染のナターシャを深く愛していた。そして彼らはほとんど結婚の約束を暗黙にも交わしていたと言ってもよいほどの仲にあった。

 だから彝はこの小説におけるワーニャとナターシャの今後の運命に大いに興味を抱いて読み始めたのではないかと想像される。彝がそれほどいい加減に本を読んでいるはずはないと思うし、でたらめに小説のタイトルや登場人物の名前を出して自分の恋愛が難渋していることを誇張しているわけでもない。

 ではなぜ彝はワーニャとナターシャとが「一週間の間に死に瀕した」と述べたのであろうか。そこで、先ずはその該当場面と想定されるところを小説の中に探し出して、その意味を考えてみたい。

 するとそれは他ならないある重要な場面以外にはないと私には思われた。
すなわち、この小説の4部とエピローグがある中で、第1部の中のきわめて重要な印象的な場面である。

 それは、ワーニャが小説家としての初めての成功をナターシャの家族と共に喜んだ日々から1年後の9月のこと、彼が「我々(ワーニャとナターシャ)の間には無限の隔りが出て来た…忘れもしない」と言っているあたりから始まる。

 ワーニャはこの時、病に倒れており、3週間ぶりにナターシャの家族が住んでいるイフメーネフ家に訪ねてくる。
 「あの夜は何者かが私を彼らの所に引っ張っていったかのようであった!」
 そしてワーニャは「この3週間の間に彼女はすっかり変わってしまった!」と、ナターシャの突然の心変わりに驚愕する。

 ナターシャは、5か月ほど前から再びナターシャの家族のもとに出入りしていた不思議な性格と魅力とを持ったアリョーシャになぜか心を奪われてしまっていた。そして、彼もナターシャを愛しているようだった。それを知ったアリョーシャの父(ワルコフスキー侯爵)は、アリョーシャにナターシャの家への出入りを、ワーニャが3週間ぶりにナターシャの家に来る日の2週間前に禁じていた。

 小説の中でワーニャは、ナターシャの重大な変心は自分が病に臥していた「3週間の間に」と言っている。だが、彝は、ナターシャの変心は、ワーニャが床に臥した3週間前の日と、2週間前にアリョーシャが父に禁じられてナターシャの家に行けなくなった日との間の1週間のうちに起ったものと小説から読み取ったのではなかろうか。そう考えなければ、彝が言う「1週間の間に」という数字は出てこない。

 こうして彝は、ナターシャがワーニャに会えず、アリョーシャだけに逢っている期間に、「死に瀕した」ようになったと伊藤宛の手紙に書いたのではなかろうか。

 もちろん、ここで彝が言う「死に瀕した」の「死」とは、ワーニャとナターシャとの「愛の死」のことだろう。そう考えるほかはない。彝は、手紙に中で「私も今少しで危うく死ぬ処でした」と、自分を明らかにワーニャに準えて言っている。が、病を抱えてはいるが、ワーニャがここで肉体的な死に瀕しているわけではない。ワーニャにとってのナターシャは、今や、不条理にも全く自分の手が届かない遠いところに行ってしまった。その意味でワーニャにとっても、もちろん「(愛の)死に瀕していた」。

 しかし、彝の場合は、小説の中のワーニャやナターシャよりも、ある意味でより深刻に自分の肉体的な死も辛くも免れたという思いがあったのかもしれない。

 そうした思いが「あの虐げられし人々の『ワーニア』、『ナターシャ』は一週間の間に死に瀕しました。世に恋愛的妄想程恐ろしいものはない。私も今少しで危うく死ぬ処でした…『只一言』・・・これを乞い願って自分はどんなにぢれてぢれてぢれぬいたか知れません」という表現になったのだろうと思う。

 小説の中で、ワーニャがナターシャに必死で言う言葉、両親の家に戻れ、そして内心では自分に戻れと叫びたかったであろう言葉も、もう彼女には全く届かない。
 ナターシャは、ここではもちろん彝にとっての俊子でもあるが、それ以上に、あるいは黒光と同様な「恋愛的妄想」に囚われた、未だ理解できない不条理で複雑な「感情」を持つ存在のようにも思われたのかもしれない。

 彝の先の書簡では、二時間足らずの俊子との「会見」で、自分たちが勝利し、俊子の心が「建てなおされ」たと書いている。だが、実際には、そこで彝の恋愛問題が解決に向かったわけではなかった。その後、4か月足らずして、まったくその反対の結果となった。
 彝もまた、実は先の場面におけるワーニャと同様に(しかし一方、俊子の心と性格は、ナターシャとは非常に異なるが、)自分の理解を超えたひとつの結末を迎えねばならなかった。
 彼は大正5年5月14日、柏崎の友人であり、支援者でもある洲崎義郎宛の手紙で、その朝、「恋愛以来の日記と手紙を残らず泣きながら焼き尽くした」と書いた。

 

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