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「幸福の総量は一定」か

 「本当は、不幸な人が減るほど、社会全体も個々人も豊かになるし、安全にもなる。しかし、多感な時期にお受験競争にたたき込まれ、定数の決まった『いい学校』の入学枠を取り合い、そこで心に傷を負った者の中には『幸福の総量は一定』という世界観に染まる者も出るだろう。この世界をゼロサムの修羅場であると思うからこそ、他者を呪い、その脱落を願う気持ちが湧いてくるのだ。」

 今日12月26日の毎日新聞の「時代の風」で藻谷浩介氏がこう指摘していた。

 藻谷氏によると、新自由主義者には2種類あるという。経済学に染まりすぎた者とそれを知らなすぎる者だ。さしずめ私などは新自由主義者ではないところの後者なのだが、確かにあまり「豊かでない」部類に属する。

 経済学を知らなすぎる者は「この世界の幸福の総量は一定だ」と信じ易く、「競争の敗者が転げ落ちることで、ようやく自分の取り分が確保できる」と思っていると氏は述べている。だから「自分たちよりさらに貧しい者を救済するような」社会福祉政策に反対するのだ、とも。

 自らが豊かな部類の階層でもないのに、なぜ、彼らが社会福祉政策に反対するのか、私には興味深い指摘であった。そして受験競争というのも罪深い世界観を植え付けるものだとも思った。

 一方、経済学に染まりすぎた新自由主義者は、富裕層に多く、「自由競争と成長を続ければ、経済のパイは増え、いずれは万人が恩恵にあずかれる」と信じ、そのために地球環境の制約などを理解しようとしないと藻谷氏は述べている。

 いずれにせよ、自己責任論の新自由主義者は、人の苦境を税金で救うのは「お門違い」と見ているようで、実にうすら寒い。

 うすら寒いと言えば、先日、有罪判決が出された元キャリア官僚2人組がこうした新自由主義者であったのかどうか知らないが、彼らがそうした世界の中で育った一流大学出の拝金主義者であったことは白日の下に曝されたのであった。

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