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中村彝とルノワールの女性裸体画「泉」をめぐる誤解と混乱

 2003年に茨城県近代美術館で開催された『中村彝の全貌』という展覧会図録の「年譜」にこんな記述がある。

 「大正9年8月19日、(中村彝は)今村繁三邸においてルノワールの『泉』『庭園(風景)』を見て、深い感銘を受け、画室に帰ってから記憶により模写する。」

 そして、ほかの美術館の解説などでも、このような記述が繰り返されていることがある。

 しかし、私は既に『研究紀要』(第4号、茨城県近代美術館、1996年発行)に『中村彝と西洋美術』という小論を書いて、その始めの方に、今村家にはルノワールの「泉」はなかったことを指摘している。(実はそれ以前にも何度かこの事実は詳細に指摘している。)

 だが、なぜか拙論は、2003年に同館で開催された『中村彝の全貌』展の図録における「主要文献目録」に掲載されていないし、上記の年譜の通りであるから、この指摘した事実には誰も気付かなかったように見える。

 その小論で私は彝が模写した3点の作品に言及した。(その他、セザンヌの静物画の部分模写や、ゴッホ作品との関連、ドガの裸体画への関心、レンブラント作品との関連などにも触れている。)それは従来から今村繫三宅にあったとされる(1)シスレー「風景」、(2)ルノワール「風景」、(3)ルノワール「泉」の3点についてだ。すなわち、そのうち(3)のルノワール「泉」は今村家にはなく、大阪の岸本家にあったのである。

 そのルノワールのオリジナル作品は「坐る浴女」(1914年作)と題され、現在はアーティゾン美術館にある(※)。そして、その来歴を調べれば岸本家のことがはっきり確かめられるのである。
 
 実は今村繁三は、彝が大正9年に描いたルノワールの晩年の作品を思わせる「泉のほとり」(現在はポーラ美術館蔵)と言われる作品を別に持っていた。そしてこの作品は単に「泉」と呼ばれることもあり、そればかりか、根拠なくルノワールの模写作品とされていたこともあった。だが、これは決して、ルノワールの作品ではないし、彝によるルノワールの模写作品でもない。そのようなルノワールのオリジナル作品は存在しないのだ。

 さらに彝には、プラド美術館にあるルーベンスの有名な「三美神」のうちの左側の美神とその背景からモティーフを借りきて、かなり自由に描いた部分模写の「裸婦立像」または「水浴の女」(伊藤隆三郎旧蔵)と呼ばれる大正8年の作品がある。これには「Inspiré de R.」との記銘があって、ルノワール風の作風を示しているので、私自身も、かつて、その”R.”は、ルノワールのそれかと誤解したほどであった。作品の一部だけをはぎ取って、かなり崩した自由な作風で描かれてしまうと、オリジナルの作品が気付きにくくなるのだ。

 さらに加えて、彝はそれら以前に何度も岡山に行こうとして果たせなかったが、大原美術館に入ったルノワールの「泉による女」(1914年作)を模写しようとしていた事実もある。そして、この裸体画も省略的に「泉」と呼ばれることがあった。

 このように彝が模写したルノワールの「泉」を巡る誤解と混乱の背景には広範なものがあり、彝が関連したこれら複数の「泉」や(水浴の)裸体の女のモティーフをきちんと把握・整理しておかないと、今日でもかえって専門家によって、様々な誤解や混乱が引き起こされ易いのだ。それが活字となって冊子や図録に定着されればなおのことであろう。

 ※ 彝が記憶模写したルノワールの女性裸体画「泉」と非常によく似たポーズの作品は、実は他にもある。例えばシカゴのアート・インスティチュートにある作品。また、土田麦僊が日本に持ってきた作品などは同ポーズ、ほぼ同構図である。

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