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中村彝のヒステリー分析

 彝の画室に奉公していたバアヤについて、知友・小熊虎之助の影響があるのかもしれないが、その「ヒステリー的カンシャク」の「原因」を語った書簡(大正8年6月18日)がある。
 ちなみにこのバアヤは、気性が激しく彝としばしば衝突して神田に帰ってしまう岡崎きいと見る説もあるが、私はそうは取らない。彝は彼女をバアヤとは基本的に呼ばず、例外はあるかもしれないが、いつもオバサンなどと書簡では書いていた。しかも同じ書簡でバアヤとオバサンとは区別しているのである。

 さて、彝の茨城県平磯行は病気療養が大きな目的ではあったが、このバアヤの「ヒステリー」が「一つの有力な原因」と自ら語っている。

 彝はこの書簡で、バアヤが「例のヒステリー」を起こして「暇を呉れ」と言い出したのを「色々に理を説いて一時思い止まらして置いたものの」、友人にもその心持を明かしたので、今度はもうバアヤの意志に任せることにしたと語り始める。

 彼女が暇をもらいたがる原因は給金不足や食べ物、待遇のためでもない。自分が「不行届きで病身だから」と言うだけで、何も言わないから彝は彼女の「無意識的潜在感情の強迫」が原因ではないかとも思うが、主因は「僕の病の急変と死に対する恐怖とその応急処置についての孤独的不安」と考える。バアヤはそれを直接自分に向って言えないだけ、「その不安が妄想的不可抗的なものになって居るのではないか」と。

 「それについて二三か月前であったか、僕が『死ぬかもしれない』という話をした翌朝、奴が恐ろしいヒステリーを起こして器物を蹴飛ばしなげ散らした事があったが、これらを綜合してみるとどうも僕にはそういう風に考えられるのです。尤もその時はそのヒステリー的カンシャクの原因を『あなたが死ぬとオバサンが来て又苛めに来るから』と言って居たが、実際は「いぢめられる」と言う事よりも僕の死を予期した所に奴の不安焦燥狂乱の原因があったらしいのです。」

 しかし実際にバアヤに行かれると、今時その後継者は容易に見つからないし、長くは友人の世話にもなれないから、この際転地するのが最上策と考えたと言うのである。

 彝のこの分析で興味深いのは、その分析が当たっているか、どうかということよりも、「僕の死を予期した所に奴の不安焦燥狂の原因があったらしい」と述べているところである。

 と言うのは、これは彼女のヒステリーの原因と言うよりも、彝自身の心の投影を語った言葉であるように見えるからである。自分の死を予期し、絶えず不安と焦燥と狂乱に駆られていたのは彝自身ではなかろうか。
 
 実際、彝には、死んでもいない俊子の死の噂を記した奇妙な文章がその前の書簡(大正8年6月14日)にあるが、これも興味深い。

 「昨日一寸風の便りで、①…おぼろげに俊子の死の噂をききました。何等根拠のないこの噂ではあるが僕にはこの方が②前のよりは遥かに合理的で信じられ易い。自分は再び人間の魂を取り戻した様な気がして昨夜は一晩親達と共に俊子の為に懺悔しつつ祈りました。」(※①…の部分、意味不明なので省略、②の部分「前のよりは」も意味がよく解らない。「前よりは」か。)

 彝はなぜこんな「風の便り」を洲崎宛の書簡の末尾に書いただろう。
 
 これこそ彼の「無意識的潜在感情の強迫」がなせる業なのではないか。もう既に俊子からの手紙はすべて泣きながら燃やして、しばらくは無交渉の態度をとって自らの心を抑圧してはいたが、心の奥底では諦めてはいなかったのかもしれない。俊子の結婚は少し前までまだ知らなかったから、一縷の望みはあったのかも知れない。
 その俊子の結婚を知ったのがこの年の4月29日、そこから2か月も経っていないところで書かれたのがこの書簡である。まさに彝が結婚をしてしまった俊子の死を予期した所に、「風の便り」の内容を書く理由があった。そんなふうに思えてしまう。それは彝にとって今度こそ最終的な「愛の死」であるからだ。
 「噂ではあるが僕にはこの方が…遥かに合理的で信じられ易い。自分は再び人間の魂を取り戻した様な気が」したと「風の便り」をもとにしても書かざるを得なかった。

 そこで思い出すのは、彝の肖像画についての言葉である。
 「肖像は描く人の鏡のようなもの」で、画家の心がモデルの心に投影して「それが又画面に写される」。「つまり実在が(画家の)心に色付けられる。なぜなら人の心は常にその接するものに従ってその色んな層を表すのだから…」。

 彝は、自分の心を、対象の存在に投影することがしばしばあったように思う。以下の言葉は、大正9年1月18日の書簡からのもので、恐らく先の書簡のバアヤと同一人物について述べたものであるが、ここでもバアヤの運命の中に自分を見ているように思えてならない。

 「可愛い、偏屈なばあや。お前の病弱と老と無力とは、次第にお前の頑固をほどいて漸く人生の会得に導きつつ、お前の魂に初めてのすがすがしい喜びと輝かしい自由とを蘇生らせかかって居たのに、ああこれからは、その同じ病と老と無力とが再びお前を運命の針の床へ追い込もうとして居る様に見える。」

 彝もまた何ものかを成し遂げようとすると、絶えず自分の病弱な運命に直面せざるを得なかった。そしてそのたびごとに何とか自分を奮い立たせて生きてきた。ただ描くことが唯一の自分の使命なのだと自らに言い聞かせてきた。

 先の洲崎宛の書簡で、「可愛い、偏屈なバアヤ」と、直接にバアヤに呼びかけているのは、いかに彝が、このバアヤに同情しつつも自己の無力を自覚し、自らに重ねているかを物語るものであろう。

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