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自由を求めて、どこまでも

 私は自由という言葉が好きだ。自由の言葉の響きにはあらゆる不自由から解放された溌剌とした軽やかさがある。自由は私の行動原理とも言うことができる。私は自由のために生きている。この自由は誰かによって与えられるものでも、どこかで偶然拾得するものでもない。自分の意志で手に入れようとしなければ獲得することはできない。
 いまの時代の日本においては言論の自由、表現の自由、職業選択の自由などあらゆる自由が氾濫しているため、自由を太陽や空気のように当たり前に存在するもののように思われている節がある。しかし、100年前の日本にはそのような自由は存在しなかった。当時の政府は自分たちに都合の悪い言論や出版を取り締まるため、様々な言論弾圧法規を作り雑誌や新聞に検閲を行っていた。自分の言いたいことを言う自由すらなかったのだ。自由な言論活動を展開すればたちまち発禁処分に遭い、拷問やリンチによって虐殺されることもあった。それでも当時の人々は徹底的に抵抗しあの手この手で自由のために闘った。彼/彼女らが当時の法律から逸脱し闘ったことで自由の領域が拡大したともいえる。
 今私たちが当たり前のように享受している自由は先人たちが獲得してきた産物である。そして、現在ある自由もいつ失われるかわからない。私は人間として生きていくのなら自由を求め、闘い続けなければならないと思う。それは家庭、学校、職場、人間関係、その他あらゆる社会的関係において言えることだ。自由を求めて生きるには大きな苦痛が伴うが、自らが置かれた不自由な状況を認識しもがき苦しみそこから抜け出した瞬間の恍惚、法悦、耽溺は何ものにも代えがたい。むしろ自由は不自由の中でもがき苦しみ抜け出した時に初めて認識されるものなのかもしれない。そこで獲得される自由は刹那的なものかもしれない。しかし、その一刹那のために何度でも何度でも貪欲に自由を求める姿勢が不自由から抜け出すためには必要なのだと思う。現在の境遇に安住していては真の自由を得ることはできない。自由を求めず、自らの不自由を認識せずに生きるのは犬生きだ、惰性の生だ。私はこれからも、どこまでも、自由を求めて生きていく。

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