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とりてん

とり天定食。以前にも投稿したことがあったと思うが、ご近所の定食屋はとにかく爆盛りなのである。それなのに全品550円。儲けはあるのかとこちらが心配するほどだ。

たとえば家族3人で行く。唐揚げ定食、とり天定食、味噌豚定食を頼む。必ず持ち帰り用の容器に一食分くらいの量が余る。付け合わせの煮物やポテトサラダ、漬物などを添えると、本当にそのまま明日のお弁当になる。このご時世で持ち帰りを始めたので、最近は2人分注文し、家で3人で取り分けて食べることも多い。

定食は揚げ物や炒め物がメインだが、副菜はどれも家庭的な美味しさだ。大根の煮付けなど、輪切りにした大根の、3センチくらいの厚みの芯まで味が染みていてほっこりするし、ポテトサラダもマスタードが効いていて飽きない味だ。時々出てくるスパゲティサラダはカレー風味。肉じゃがの日に当たると、それだけでご飯が一膳いける。

とにかくお腹いっぱいになる。わたしはおばあちゃんに呪いをかけられているので「お腹いっぱい食べられることがどれだけありがたいことか」と考える。「いいかい、当たり前のようにご飯が食べられることは幸せなんよ。あんたのお父さんが子どもの時はね、毎日、三度もご飯が食べられることはなかったんよ。白いごはんじゃなくて、麦とかヒエとか、そんなものを食べたこともあったし、それでもいい方だった。戦争の終わり頃は、何にもなかったんだよ」

父の家族は終戦の時、満洲にいた。戦況が怪しくなるまで、祖父が設計の会社を経営していたとかなんとかで、社員やお手伝いさんとして中国人を雇って、しばらくはいい暮らしをしていたらしい。祖母がその人たちをとても可愛がっていたので、終戦が来て日本人は襲われることも多かったらしいが、毎朝その人たちが玄関先に丸めたおからを投げてくれたそうだ。直接渡すと、その人たちの立場も危くなったのだろう。父の家族は1年後に戦艦に乗せてもらって、ようやく日本に戻ることができたらしいが、それまでの生活は本当に命がけだったと言っていた。

近所の定食屋→腹いっぱい→おばあちゃんの呪文→戦時中の人々の暮らしを思う→今も満足に食べられない世界の人々がどのくらいいるだろうか→日本にも毎日ちゃんと食べられない人たちがいる→腹一杯になることの罪悪感 と、ここまでがセットである。そこまで考えるのに、何も行動できない自分がつらい。たまに寄付や署名をするけれど、活動家として生きているわけではない。結局は自分のことしか考えていない偽善者なのだと思える。

だから、わたしはムスメには言わない。この時代を生きるのに、必要以上に自分を責めることはないと思う。美味しかったね。お腹いっぱいになってよかったね。幸せだね。ありがたいね。その先は、ムスメが歳を重ねながら、何がしかの気づきを得ていくことに任せようと思っている。

まさか、とり天定食の話から、こんなところに着地するとは思ってもみなかった。



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