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だんだんわかってきた。

音が苦手だ。油断していると、その場所の全部の音が同時に聞こえる。人の話し声、電化製品の稼働音、テレビやラジオ、スマホやタブレットの動画の音声、外を走る車の音、何もかもが全部聞こえてくる。この頃は、意識を集中させなければ、選り分けて聞くことが困難なことが多くなってきた。

この三連休、義実家にいる。全く自由がきかない。外は台風で、昨日は雨風もひどかったし、今日もまだ降っている。閉塞感に加えて、音の洪水。

義実家では、テレビが大音量でつけっぱなしだし、オットのスマホからはモータースポーツや戦闘ゲームの音がするし、ムスメの見ているyoutubeではなにやらテンションの高い声がするし、お母さんにはずっと話しかけられる。これらを選り分けて聞くことができない。全部が同時に耳に入ってくると、脳が受け入れ拒否をする。集中できないのだ。当然、どの声に対しても反応できない。わたしは必死だ。

みんなでテレビを見る場合もあるが、ドラマでもバラエティでもお母さんは黙っていない。犯人はこの人だろうとか、この俳優は年をとっただとか、アナウンサーのスキャンダル問題は解決したのかとか、そういう話が始まり、芋づる式に話が展開していく。「そう言えば…」と、ワイドショーの話題が雪崩のようにあふれ出す。それもまた、わたしの脳にストレスがかかる。

いつも陽気なお母さんは一人暮らしだ。お父さんが亡くなって5年が経つ。それ以前から、お母さんは少なからず孤独感を味わってきたのだろう。お父さんは結婚当初から船で仕事をしていて、海外航路のため数ヶ月は不在で、家に戻ってもひと月もすれば、また数ヶ月は不在にする。退職してからも、お父さんは趣味の読書と散歩で、一日のうち、ほとんど会話がなかったとも聞く。息子たちも巣立ち、お父さんと二人で暮らしていたけれど、お母さんにはどこか淋しさがあったのではないか。誰か家にいるとき、そのおしゃべりを止めることができないのは、そのせいではないか。これまで黙って過ごしてきた分を、一人で抱えてきた不安を、全部取り戻そうとするかのように。

しかし、『だんだんわかってきた』のは、お母さんの淋しさのことではない。わたしが「音に弱い」ということだ。どんなに好きな音楽でも、それだけを集中して聴いているときはいいが、BGMになったとたんに雑音と化してわたしを苦しめる。お店でみんなとおしゃべりをしていても、他のお客さんたちの話し声が耳に入ってくるし、BGMの音楽が耳に障るし、子どもたちの嬌声に、発狂しそうになる。

子どもの頃からずっとそうだった。この子は気が散りやすい、集中できない、と大人たちにレッテルを貼られ、かなりの頻度で叱られていた。ぼーっとしていることが多くて、学校でもバカにされていた。耳が音を遮断しようとして、空想(妄想)の世界に浸ってしまうのだ。記憶力は、全て目からの情報に頼っていた。耳で聴いても少しも覚えられない。それは未だに同じで、特に人の名前の場合、「田中です」と言われても、文字で見なければ完全に忘れる。

これは医師の診断をもらったわけではないが、いわゆる「発達障がい」のグレーゾーンにいるのではないだろうか。それとも単に老化して、気が短くなったり、記憶力が悪くなったりしているだけだろうか。いや、そのどちらとも、かなぁ。


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