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しぬとき

(展示内容のネタバレをしています。お気をつけください)

40代からの終活おしゃべり会、という公民館の講座に2回参加した。その時にいただいたエンディングノートに「書くことがあるだろうか」と思いつつ、ペラペラめくってはみるものの、何にも思いつかないでいた。

今日、ミナ・ペルホネンの「つづく」展に行った。名前やテキスタイルのデザインは知っていたけれど、そのコンセプトだとか、皆川明さんについては何も知らなかった。『かわいいお高い服』という認識だった。

会場に一歩足を踏み入れて、わあ!と心が浮き立つ。壁一面にビッシリ並んだクッション。カラフルで繊細で大胆で落ち着く。「どの写真を撮ってもいいです」と言われたので、全部撮りたい気持ちになる。

どの生地にも物語がある感じ

展示室の角を曲がるたびに「おお」と心の声が漏れる。「なにこれなにこれ」と胸がドキドキする。

どれも着てみたい

ずらりと並んだ服を見てすぐに思った。「この服を着て棺桶に入りたい」。
どれか一つを選ぶのは難しいが、どれでもいいかもしれない、とも思う。つまりそれは、服という形になった「意思」だから。作り手が愛や喜びというものをめっちゃ込めてる。それがいっぺんにビシバシと伝わってくる。見ているだけですごく幸せ。どれもいいから、どれでもいいのだ。

しかし、そんな思いの詰まった服を棺桶に入るためだけに選ぶのは本末転倒。やはり、生きているうちに着なければ。

展示室を一つ一つ進んでいくたび、「誤解してたな」と思う。ファッション、つまり「流行」の一部だと思っていた。ミナペルホネンは違った。
定番なのに古くない。そして常に新しい定番が生まれつつある。生み出す力。種から根が出て芽が出て茎が出て葉が出て花開く。そしてまた、種になる。これって、歴史じゃん、と思う。これって、哲学じゃん。

一番最後の部屋に、胸を打つ展示があった。何年も着たであろうミナペルホネンの服と、その服の持ち主のエピソードが綴ってある。1年とか3年とか9年とか、その服を何年着ているのかも記してあった。そしてその多くは、母となった人が娘に「お下がりにちょうだい」と言われているのだと書いていた。どの服にも、それを着た人の物語がある。父の、母の、妻の、子の、そして自分自身の物語がはっきりと、記憶とともに服に刻まれているのだ。擦り切れてしまった袖口も、傷んだ裏地も、味わいとしてそこにある。お直しをしながら着続けている人も多い。どの服も大事に大事に着ているのがわかる。

皆川さんの「服というものは、その人にとっての一番小さな空間であるとも言える」という言葉にハッとする。服に包まれているわたしたちは、その空間を選ぶことにもっと気を遣ってもいいのではないだろうか。高い服とか安い服とかそういう基準ではなく、わたし自身を大事にする服を着る。わたし自身を大切にする空間を作る。それが服の本質なのではないか。

どうせこんなわたしに似合う服なんてないとか、どうせすぐに傷んだり流行らなくなって着られなくなるんだからとか、そういう投げやりな態度はもうやめよう。わたしはわたしのために、ミナペルホネンでなくてもいいけど、もっとちゃんと服を選んでやろうと思った。もちろん、ミナペルホネンの服もいつか着たい。そして、長く長く大切に着たい。

そう、そして人生の最期に、一番小さい空間だと思っていた棺桶よりももっと小さな空間である『服』は、ミナペルホネンにしたい。エンディングノートにそう書いておかねば。白装束は着ないぞ。わたしはカラフルに死んでいくのだ。


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