余白の美

なにごとにも『余白』みたいなものが必要だ。

10代の終わり頃。その日はわたしが夕食を作って、焼魚を皿に盛り付けた。それを食卓に出したら、父から「お前は学校で何を習っているんだ」と言われた。「こんな雑な盛り付けでは、見た目がうまそうじゃない」わたしは美術系の学校に通っていたので、それはかなり手厳しい指摘だった。そして、レイアウトというものが生活の中でどんなに重要なものかということがわかった。

ここに余白を、と思っていても、同居する家族が物を置く。ちょっと置いたつもりだろうが、それが日常化して、定位置になる。その繰り返しで、わが家は飽和状態だ。「部屋は心の中、頭の中を表している」と、何かの本で読んだ。断捨離だったか、こんまりだったか。やはり心にも余白が必要なのだ。

「忙しい忙しいと言うのは『わたしには能力がない』と宣言しているってことだ。恥ずかしいと思え」と言われて続けてきたのだが、実際、忙しくて心には余白がない。これが現実なのだ。わたしには能力がない。あったとしても、微々たるものだ。

昨夜、やり残して帰った原稿を書いてメールで送った。今朝、フリースクールの先生から返事が来て「ありがとうございます。でもご自宅では仕事をしないでください」と書いてあった。ごもっともである。わたしは定時では仕事ができないのだと自分で証明してしまったわけだ。

生活に余裕がない。心に余白がない。生きてはいけるが、かなり見栄えが悪い。あの日、父に叱られた焼魚の皿を思い出す。

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