見出し画像

RIP

物言えば唇寒し秋の風。口は災いの元。だから、人の悪口や不平不満はなるべく言いたくない。だが今日はここで言う。

おととい、ちょっとした裏切りめいた仕打ちに遭って傷ついたわたしは、悲しい気分を払拭すべく、奮発して何かうまいものでも食べるか、と思ってステーキ屋に入った。表にテイクアウトと書いてあるので、家で待つオットとムスメに買って帰ろうと思ったのだ。まず「こんばんはー」と入って行ったらテンガロンハットをかぶった店主にジロリと睨まれた。「テイクアウトをお願いしたいんですけど」と言ったら、ものすごく面倒臭そうな顔で「は?」と言われた。ちょっとムカッとしたが「テイクアウトって、どんな感じですかね?お弁当ですか?」と丁寧に聞いたら、「単品です」と返事が来た。わたしは焼いた肉が一枚ペロンと包まれたアルミフォイルか何かを渡されるのかと思った。メニューを渡されると、そこには肉の部位の種類と重さによって違う値段が書かれていた。「ごはんもつけてもらえますか?」と聞けば「メニューの右上にあります」とこちらの方も見ずに言った。そんなこともわからんのか、とでもいうような態度だった。

わたしはもともと抱えていた悲しみの上に怒りがトッピングされて、今にも泣きそうだった。わたしが何か悪いことしましたか。わたしがあなたに不利益になるようなことをしようとしていますか。そのまま帰ってもよかったが、腹が立ったせいで意地になってしまった。

わたしはメニューからひとつ選び、ごはんを大盛りで頼んだ。「それから…」ともうひとつ頼もうとしたが、心の声が「やめとけ。不愉快が増す」というので「あ、やっぱりひとつでいいです」と言った。「15分くらいかかりますよ」とこれまたぶっきらぼうに言われたので、「今、お金を払いますので、外に出て15分後に戻ります」と言った。これ以上、その空気に耐えられなかった。「ああ、お勘定は戻ってからでいいですよ」と言ってチラッとこっちを見た。そうですか、じゃあ15分後に戻ります、と店を出た。

店を出て、コンビニに向かいながらこのまま帰ってしまってもいいんじゃないか、と思った。わたしの素性など店主は知らないわけだし、お客にあんな態度でいるなら、こういうしっぺ返しもアリなんじゃないか、と考えた。

いや、いかんいかん。人生、踏み外してはいけないラインがある。ここは人としてギリギリの判断だ。相手がどんな態度だろうが、注文したのはこちらの方だ。

店に戻ってお金を払うとき、テンガロンハットをかぶった店主はちらりとこちらを見た。さっきは気づかなかったが、その顔は松尾スズキに似ていた。八の字に下がった眉毛。わたしは「ん?演技?」と思った。そう思ったとたん、一連のやりとりが劇場化されて脳内リフレイン。そして滑稽に思えた。

オットとムスメは二人でひとつのステーキを食べた。ミディアムレアに焼かれた肉はちゃんとカットされていて、大きな人参とジャガイモの付け合わせがあり、お弁当のパックに入っていた。ステーキソースは別の容器に入れて添えてあった。大盛りのごはんはたっぷり二人分。妥当な価格設定だし、二人は「うまいうまい」と言って食べた。わたしも一口食べたが、焼き加減も絶妙で、確かにおいしい。これなら二つ買って帰ればよかったかな、と思ったが、店主のあの態度ではそれは無理だった。

二日経った今日、オットは「あのステーキ弁当うまかったな。どこで買ったの?」と聞いてきた。今度は自分が買いに行ってみようかと思ったのだろう。わたしが店の名前をいうと、「えー!まさかのあの店か!」と驚いていた。「よく行ったな〜。オレは絶対行かない」と笑っていた。

オットもずいぶん前(たぶん20年くらい前)に同僚と行ったことがあるが、店主の態度の悪さに辟易して、二度と来るかと思ったらしい。だがその店は30年以上続いている。店名を言わずに出したものをオットは「うまい」と言って食べたのだから、その味で店は続いているのだろう。

もうよほどのことがない限り、あの店に行くことはないと思う。でもテンガロンハットをかぶった無愛想な松尾スズキが肉を焼いていると思ったら、ちょっと愉快な気分でもある。

サポートいただけたら、次の記事のネタ探しに使わせていただきます。