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自己紹介を作ることが課題だった

フリーランスウエデイングプランナー・研修講師をしています 森りかです。

明後日あるセミナーへ参加するのですが、肝心な課題を作っていないことに気がつきました。昨晩のメールを見て、見落としておりました。

結構焦っております。

ちなみに明後日のセミナーはこちらです。

よく見ると、すでにエントリーするための対策講座に参加するんです。

ああ、そういうことなんですね・・・。

ということで、 肝心な課題を作成いたします。

あくまでもメモの様なもの。明日、最終的まとめようと思っています。

私のプロフィールその1

短大までのこと

1963年9月4日 東京都小平市生まれ

3歳まで東京都小平市で育つ

その後千葉県市川市に転居

中学3年生という、何とも言えない時期に千葉市へ転居

結婚するまで千葉市に住人であった

父は防衛庁に勤務するお堅い国家公務員。

母は結構厳しい、神経質な面があった。パートをしていた。

兄弟は、3つ下の弟が1人。サラリーマンである。

高校までは千葉県内の公立の学校へ通う。

その後短大に進学。共立女子短期大学である。

そこそこのお嬢さん学校?なのかな。

本当は4年生の大学が行きたいと、何校も受験はした。

しかし勉強不足、学力不足、で不合格。

母がかねてから短大へ進み、大手の会社へ進んで、結婚相手を探すのが

いちばん幸せと言っていた通りになってしまった。

あの頃、もう少し根性出して頑張ればよかったと反省している。

しかし、数十年前のことですから。

ちなみに、短大時代は、できたばかりのデイズニーランドでアルバイトをした。

短大を卒業し、社会人へ

短大を卒業後、日本電気株式会社へ入社。

お恥ずかしながら、半分コネで入社。

住友商事にいた叔父の力を借りての入社であった。

一応、学校推薦はもらったので、他の人の半分の力で入社できたのだと思う。

入社前の配属面接で、秘書室の配属を言われたのであるが

(もちろん、ポストはしっかり用意されていた)

適性検査を踏まえた、配属だった様で、意外にも秘書向きだった感じである。(私はいまでも信じていないのですが)

しかし、堂々と断った。

理由は簡単。上司より1時間早く会社へ行くことが難しいと判断したからである。

普通は断らないであろう、一言でずいぶんと衝撃を与えてしまった。

そんな訳で、ある事業部配属。結局、事業部長代理(部下は300人以上)

の秘書になってしまった。

日本電気は3年で退職。

NEC退職した後 結婚まで

ここから、私の自分探しがスタートしたのかもしれない。

30社以上履歴書を送ったが、全く結果が出なかった。

その頃のはやり言葉、「とらばーゆする」

そう、転職雑誌、しかも女性版の「とらばーゆ」が流行っていた時期なのである。1980年に創刊。女性のキャリアアップをバックアップする雑誌でもある。

そんなこんなで、自分らしい仕事は何かと考えて、手当たり次第履歴書を送った私。

日本電気にいたって、正直何も役に立たないことに気がついた。会社の名前だけ大きくて、自分のキャリアは何もない。その時に受けたのが皮肉にも陸ルートの系列会社、当時は始まったばかりの小さい仲良社であった。

それが「リクルーとスタッフ」いまでいうところの

「リクルートスタッフィング」である。


ここにいた時の思い出は、短いながら濃厚なものである。ここのことは別に記載するとして、ここを1年足らずで退職。

その後、営業途中で声をかけられたアパレル会社に入社。

営業を5年。結婚を機に退職した。


結婚まではざっとこんな感じ。それぞれ思い出すとキリがないくらい

思い出すことがいっぱい。

これでプロフィールになりませんね(汗)


まとめるための資料ですので、思いついたことを記載しています。





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