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地図を覚えることと時間割を覚えることは同じかどうか(私的閑話休題)

 昨日、クマイベント参加中(明日まで!!!)のミレイちゃんねるのパジャマパーティーコラボ配信があり、千歳ゆうりさん(@Chitose_utatane)とコラボして雑談を行っていた。そこで、

・地図を覚えることと時間割を覚えることは同じかどうか

というテーマが議論の対象となった。ゆうりさんは違うと主張し、私は同じだと主張した。ミレイちゃんはゆうりさん寄りだったようだ。これをゆうりさんやミレイちゃんと話した結果言語化した私の考えをまとめておきたい。ちなみに私が出した結論は、過程は一緒で、結果は異なるというものだ。

記憶するとは

 まず、ものに対して記憶できるかどうかは、大きく分けて三段階に分けられるようだ。前提として、与えられるある情報は等価であるものとする。
①その情報を受け入れる
②その情報に注目する(仮)
③その情報を記憶として定着させる
 ただし後述するが、ものに対して記憶できるかどうかは②と③の複合的要素が強いという結論に至っている。

①受け入れる

 等価な情報を与えられた際に、受け取り手は等価な情報を受け入れることができる。
 注意点としては、目が見えない人が色を受け取れないとしても、情報は受け入れているということだ。例えば白いものより黒いものの方が日光の下では温度が高く、それは目が見えなくても感じ取ることができる。赤と青でもそれは変わらない。
 どれだけ影響が小さくても、我々は等価に情報を受け入れていると言っていいだろう。

②注目する

 これが比較的曖昧な部分である。というのも、さらに細分化が可能であるかもしれないためだ。
 ②は意識無意識を問わず受け入れた情報について、感じ取れるかどうか、感受性があるかどうか、注意を割くかどうか、興味があるかどうかという段階である。注意の網の目の細かさが情報の種類により異なると言いたい。
 例えば雑踏の木々を見てそれぞれの葉の色や形に注目するか、木があると思うか。道行く人々が話しそれぞれがどんなことを考えながら過ごしているのかに注目するか、雑音だと思うか。教室内に黒板、机、椅子、時計や掲示物があることに注目するか、教室があると思うか。
 この段階で初めて、はっきりと個人差が発現する。

 ただし、ここでも意識無意識は関係しない。注目した結果、言語化できない曖昧な情報についても我々は判断の材料として利用し、それを違うものだと認識することができるからだ。
 これはゆうりさんの考えるものだが、受け入れた情報に対する閾値を0に限りなく近づけた理想的な場合において、この段階も我々にとってフラットになりうる。(が、情報量に間違いなく発狂するだろう。)

③記憶にする

 これも、厳密には二つに分けられる。記憶するという行為と、記憶したという結果の部分である。全方位教養お姉さんが時間割を覚え(られ)ず、私が時間割を覚えたという違いは、結果の違いのほうだ。それよりも、記憶するという行為に着目して話していきたい。
 ゆうりさんは、意味のあるなしで覚えられるかどうかが異なるという話をしていた。ゆうりさんはそれぞれの情報について互いに意味付けをすることにより整理し覚えることができ、それが非常に網羅的かつ体系化されているようだ。歴史に対する知識がいい例だろう。また地図についても、スタートとゴールと現在地がそれぞれ結び付けられるが故に覚えることができると言っていた。
 一方で時間割には互いに意味づけするための情報が存在しないため、覚えるコストが非常に高いと感じているようだった。また、時間割は確認すればいいというのもそれを後押ししているようであった。
 他方私は、当然丸暗記より体系的に覚える方が覚えやすいが、時間割を覚えてしまうタイプだ。それぞれに意味はなくとも繰り返すことで覚えてしまう。歴史も地図も時間割も、全て同じ記憶の対象となる。記憶コストがほぼ同じであると言い換えてもいい。
 つまり、情報の種類に対しての記憶コストは個人差がある。

②と③を複合的に考える

 そして、ここで②の話が戻ってきて複合的な話になる。
 私にとって、木々のそれぞれの様子よりも教室内に掲示された時間割のほうが注意の網の目にかかりやすい。前者よりも後者に対して、網の目が細かい。結果として、木々があるとしか感じないが、時間割は覚える。記憶コストが大体同じならば、網の目にかかるかどうかが記憶できるかどうかの境目になる。
 ゆうりさんにとっては逆に、注意の網の目はどこもある程度同じようだ。木々のそれぞれの様子も教室内に掲示された時間割もフラットに網にかかる。そしてその後の意味づけをして記憶に残す部分でコストが大きく異なるために、木々のそれぞれの様子は知識に紐づけられて残り、時間割は抜け落ちた。

 さて、地図の話はそれぞれでカテゴリが異なる。ゆうりさんにとっては木々側だ。体系的に覚えられるので記憶コストが小さいため記憶される。一方、私にとっての地図は時間割側である。注意の網の目に引っかかり記憶される。
 無論個人差がありグラデーションであるが、このような理由で地図は両者が覚えられ、時間割は私しか覚えなかったという違いが偶然に出たのだろう。

結論と感想

 このように、ゆうりさんと私は記憶する行為については同様のルートをたどっているが、その過程で取りこぼさず記憶に残るまで至るかどうかは記憶対象によって異なったため、地図を覚えることと時間割を覚えることは同じかどうかについて意見が分かれたと考えられる。

 私はこの記憶コストが等価であると考えてしまったが故に、ゆうりさんと悲しいすれ違いを起こすことになった。が、それをすり合わせ少しずつ言語化していく過程は非常に面白い物であった。そしてミレイちゃんという名通訳がいたことは間違いなくその助けになった。

 そしてこれを深く心に刻むこととした。


 それから、ゆうりさんが19日土曜にyoutubeで生演奏をやるそうです!イトイさん(@ItoiPiano)のご厚意で実現したゆうとくんとゆうりさんの生演奏、本当に本当に楽しみです!


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