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いろんな人の支えなくして生きていけない

8月26日(月) 誰もがもっと自分に優しくなっていい日

 朝から晩まで、とんでもなく眠かった。満月の日は眠くなるらしいと友達が言っていたのを思い出した。きっとそう。そんな時は、無理に抵抗しないようにしている。状況が許してくれないこともあるかもしれないけれど、できるだけ身体の声を聞いてあげたいと思う。私がそう思うようになったのは、がむしゃらに抵抗し続けた結果からだった。できることなら、そんな段階を踏まずとも自分にもっと優しくしてあげてほしい。「大事な友達に優しく接するのと同じように、自分に優しくしてあげてね」と教えてもらったことがある。それを聞いた私はホッとした。そんな安心感を誰かにもおすそ分けしたいと思うのはおせっかいだろうか。今、私の得意を発揮する時だ。

8月27日(火) 探そうと思うと見つからないけれどそのうちに込み上げてくる日

 最近、やってみたいことがぶわぁーっと込み上げる。すごく嬉しい。これまでもゼロではなかったけれど、やるべきだ、やらなければならない、やったほうがいいみたいな理由から取り組むことが多かった。典型的な完璧主義。「やりたいことの見つけ方」みたいな本を読んだこともあった。それではやりたいことは見つからなかった。それが今、ぽつぽつと、ぶわぁーっと、出てくるようになった。自分のやりたいことに過ぎないけれど、その過程で誰かを癒せるような、誰かの拠り所になるような働きができたらいいなあ。

8月28日(水) 本当に有難いことだから「ありがたい」と言葉にする日

 最近、「ありがたい」とよく口にする。言葉に回数制限がなくてよかった。けれど、言い過ぎて「ありがたい」のありがたみが薄れていかないか心配になる。「ありがたい」は「有難い」と書く。その言葉の語源を調べてみた。

「有難い」の語源は日本語の「ありがたし」に由来します。「ありがたし」は、「有ることが難しい」という意味を持ち、もともとは「滅多にないこと」「珍しいこと」を表現する言葉でした。

分解してみると:
「有り」(あり): 存在する、ある
「難し」(かたし): 難しい、困難

これが組み合わさって、「存在することが難しいほど珍しい」という意味が元になりました。つまり、何かが「有難い」とされるのは、その事象や物事が非常に貴重であり、めったにないからこそ感謝すべきものだという意味になります。

その後、時代とともに「貴重なものに対する感謝」の意味が強まり、現代では「感謝の気持ち」を表す言葉として広く使われるようになりました。

ChatGPTより

仏教の教えに通じていることから、お寺の和尚さんが話してくれることがよくある。最近では祖父の初盆の法要で聞いた。語源を理解したうえで、私は有難い環境に身を置かせてもらっていると感じる。せめてその気持ちがちゃんと伝わるように、にまにまして言わないように気を付けようと思う。(そこ?)

8月29日(木) 結局のところどんな自分も自分だと受け止める日
 
 
そういえば、以前会社に勤めていた頃、「いつも何かに怯えているような顔をしている」と同期に言われたことがある。言われるまで気づかなかった。けれど今思い返すと、いろんなものがこわかった。周囲の視線や、急に発言を求められる場面や、締切間近の張りつめた空気感や、いろいろだ。機嫌の悪い人がいたら、私がそれに関与していると思わずにはいられなかった。こうして書き出すと分かる。ほとんどは思い込みによるものだ。”そんな気がする”のだ。実際のところ、親切にしてくれる人はたくさんいた。ちゃんと見てくれている人もいた。そんな環境でも戦闘態勢にしてしまうような、やっかいな自分を私は心に飼っている。それから心機一転、環境を変えたからと言って、やっかいな自分が消えてなくなることはない。たまに見え隠れする程度になったような気がするが、えいえいっと攻撃しては主人を悩ませている。書いていながら好きな曲の歌詞が浮かんだ。

あなたとの相違は
私である為の呪いで
卑屈は絶えないが
そんな自分を
本当は嫌えない

だから、悔しいけれど私は私を嫌えない。

8月30日(金) 愛情を車に乗せて運んだ日
 
 
果物って高級品というか、一人暮らしをしていると毎日食べるのはなかなかハードルが高いと感じる。だから、実家で毎日のように果物が出てくるあの現象は当たり前ではなかったのだと、一人暮らしをして改めて実感する。そして、一人暮らしの家に父母が訪ねて来る時に食べきれないくらいの果物をくれるのは、普段の生活を想像してのことだろう。帰省から一人暮らしの家に戻る時も、果物だけでなくいろいろなものを持たせてくれる。車に乗るようになって、その量に際限がなくなったように思う。多い、重いと言って別れたものの、車で一人、胸がいっぱいになり涙をぽろぽろ流しながら運転した日のことはきっと忘れないだろう。

8月31日(土) 自分のために服を着る日

 今日は何着よう?そう考える機会が以前より減ったように思う。そもそも服を買わなくなった。あ、だから今日着る服に迷わないのか。そんな私が、久しぶりに服を買った。in東京。ちょっと(かなり)奮発した。大好きなYouTubeの人が言っていた。「服を買っても着ていくタイミングがない、じゃなくて、この服を着てどこどこでランチしたいとか、この服でどこどこに遊びに行きたいとかが大事。だから服を買うの。」って。私の大好きな人、あさぎーにょ。そのアパレルブランドで2着いってまった。嬉しくて、その場にいた店員さん全員と喋ったような気がする。私にとっては、洋服の形をした御守りみたくなっている。誰かに見せるためではなく、私が私のために着たい服。「あ、この服を着てあのカフェに行きたい。」ふと思いついて、出かけて行ったのが次の日のできごと。わくわくする気持ちを抱きしめて、眠りについた。

9月1日(日) 自分のために過ごす日曜日

 仕事をするようになってから、日曜日は仕事に必要なエネルギーを温存するための日でしかなかった。外出は必要最低限。食料品と日用品の買い物を済ませ、1週間分の作り置きを用意する。午後になると胸がざわざわし始めて、YouTubeを見たり、溜まっている録画を見たりして気を紛らわせていた。毎週のように、そんな過ごし方をしていた。それが、最近の日曜日は、お昼を過ぎてからぼちぼちと身支度をして、ふらっとドライブに出かけるようになった。目的地は決まっていたり、決まっていなかったりする。トンネルを抜けて緑いっぱいの景色を眺めながら、自分のしたかった暮らしが今ここにあることに気づいた。暮らし方を変えたくて自ら環境を変えることを選んだけれど、変化をちゃんと実感できたのは今日が初めてだったかもしれない。この環境が当たり前になってしまう前に気づけて良かった。

新しい1週間が、心と身体に優しい時間になりますように。
お読みくださり、ありがとうございました。

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