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移ろいゆく科学教育の価値観

本記事は Science Education Book Club in Japan の活動の一環として、オンライン読書会で読んだ本の内容と、参加者による議論をまとめたものです。2020年の1冊目の本は ”Values in Science Education: The Shifting Sands” を読み進めています。

今回は、以前に出版された書籍と本書の「The Shifting Sands of Values in Science Education. An Introduction (導入:移ろいゆく科学教育の価値観)」の章を中心に、この本が書かれた背景について考えていきます。

この本が書かれた背景

今回対象とした本は、2020年に発売された ”Values in Science Education: The Shifting Sands” です。この本には、同じ執筆陣が同じテーマで書いた前書が存在します。

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2007年に発売された前書と今回の対象本にはいくつかの共通点があります。それは、どちらも科学教育・理科教育の"価値(観)" について様々な視点から考察していることです。しかし、前書の登場から10年以上経過し、自然科学や科学教育を取り組む環境は大きく変化してきています。例えば、フェイクニュースや科学が関わる問題に対するSNS上での意見表明など、最近になって登場した新たな問題を本書では扱っています。

これから毎週1章ずつ対象本を読み進めていくわけですが、いきなり本書の内容に入る前に、前書の内容を簡単におさらいしておきましょう。

前書の復習1:科学カリキュラムは価値中立的(value-free)か?

前書の第1章は、科学カリキュラムは value-free だろうか?という問いかけから始まります。つまり、科学教育に携わる私たちは自然科学をそっくりそのまま加工せずに教えているのでしょうか?あるいは、何かしらの価値観に基づき取捨選択や付け足しがなされているのでしょうか?

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20世紀に提案されたアメリカの有名な科学カリキュラムを例に挙げると、電気や炭素とは何かといったトピックは扱われていても、それらが社会においてどのように利用されているかは扱われていません。このように、科学カリキュラムを作成する過程で何かしらの取捨選択が行われており、value-free とは言えないだろうというのが筆者らの主張でした。

日本の現在のカリキュラムにおいても、例えば原子は扱っても素粒子を扱うことはほとんどありません。また、教育的な価値を付与して加工するという事も見られます。例えば、小学校第5学年で学習する振り子の単元では、振り子の周期に影響する変数が振り子の長さのみという結論になっていますが、実際には小学生が検出できないレベルで振れ幅の変数も影響を及ぼしています。それでもこの単元には、実験における条件制御を教える上で有用であるという教育的な価値が見出され、カリキュラムに採用されています。以上のように、教育者は自然科学のあるがままをそっくりそのまま受け流すかのように教えているのではなく、何かしらかの価値観に基づき取捨選択したり加工したりしているのであって、その価値観に自覚的になることは重要だと言えます。

読書会のディスカッションでは他にも、カリキュラムに何が含まれるかは、様々なステークホルダーの闘争の結果であるという考え方が話題になりました。例えば、最近話題になっているプログラミング教育は、プログラミングに関する人材の育成とICT機器を販売する企業の利益という社会的な要請から強い影響を受けていると考えられます。学校教育で教えるべきだと考えられている内容は大量にあり(e.g., 食育、性教育、新聞教育)、学校教育では優先度の高いものを優先して教科として扱う必要があります。その際の優先順位というのは、社会の様々なステークホルダーの闘争の結果として決定されるものなのです。

また、それぞれの国や地域に特有の価値観も科学カリキュラムに影響を及ぼします。一般に、西洋と日本の自然観を比較した場合、西洋では自然をコントロールできるものと捉えているのに対して、日本では自然のあるがままを美徳とする価値観があると言われています。そのような日本の特徴の反映として、日本の理科教育の目標には伝統的に「自然を愛する心情を育てる」ことが掲げられいます。

前書の復習2:理科教育の価値の分類

では、学校における科学教育、すなわち理科教育の価値とはどこにあるのでしょうか?理科教育の価値が明らかになれば、私たちが自然科学をどのように加工して教えているか持見えてくるはずです。前書の著者の一人であるReiss は、理科教育の価値を6つに分類しています。以下、特に示さない限りは前書のReissの主張の整理です。

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1つ目は「将来の科学者の供給」です。理科教育には、将来の科学者を育成し、社会に貢献するという価値があります。近年は、STEM(Science, Technology, Engineering and Mathematics)分野の人材育成が世界的な課題となっており、優れた専門家を育てる上での準備教育としての価値があります。ただし、学校教育を受けるすべての子供が科学者になるわけではないので、科学者にならない人にとっての価値はあるのかという民主主義的観点からの批判があることは忘れてはいけません。

2つ目は「科学的リテラシーの育成」です。ここでのリテラシーとは科学の基礎的な理解のことを指し、基礎的な理解はさらなる学習に役立つものだと考えられます。

3つ目は「個人の利益」です。科学を学ぶことで、日常生活における様々な点で役立つことがあります。ここでの利益とは金銭的な利益のみならず、ワクチンを接種して自分の健康を守る、防災について学習して自分の命を守るといったことも含まれます。

4つ目は「民主主義」です。理科の授業では、実験・観察によるエビデンスに基づいて議論して結論を導く活動を大切にします。そのような活動は、合理的な議論に参加する能力を子供たちに育成し、民主社会に寄与する市民の育成に貢献すると考えられます。

5つ目は「社会正義と社会政治的行動」です。自然科学の内容は地域や社会の問題を解決する上で役立つことがあります。本文では紹介されていませんが、日本では「総合的な学習の時間」において理科の学習内容を活用しながら地域の問題を解決する優れた実践が全国で行われており、これは社会正義に方向づけられた取り組みの1種と解釈できるのではないでしょうか。

6つ目は「批判的思考」です。理科では検証計画は妥当か、結果は信頼できるものかなど、常に批判的思考を働かせることが求められます。また、社会では科学が関わる問題にを批判的に吟味して意思決定を行う必要があり、このような能力の育成は重要な課題となっています。

The Shifting Sands

では、ここからは読書会の対象本である”Values in Science Education: The Shifting Sands” の内容に移ります。最初の章のタイトルは「The Shifting Sands of Values in Science Education. An Introduction (導入:移ろいゆく科学教育の価値観)」であり、科学教育の価値観が科学実践に影響することや、そのような価値観が近年変化してきている可能性が指摘されています。この章のタイトルや本の副題にもなっている”The Shifting Sands”とはどういう意味でしょうか?

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上のスライドに示した写真のように、海辺の砂の城をイメージしてみてください。砂というのは脆く崩れて形を変えながらまた新しい形を形成していきます。このように、科学教育の価値観というのも時代や様々な要因によって形を変えながら移ろいゆくものなのではないでしょうか。

価値観の重要性

Allchin (1998) によれば、科学者の価値観と科学の営みは3つの方法で交差するようです。この交差の仕組みは、科学教育者と科学教育の交差にも当てはまるかもしれません(本文では明記されていませんが、そのように解釈しました)。以下、本文におけるAllchin(1998)を紹介しつつ、具体例を考えていきます。

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1つ目は、科学研究そのものを導く価値観です。特に、科学はどのように知見を生み出すのかという認識論が、当事者の科学実践のあり方に大きく影響すると考えられます。このことは、科学教育者についても当てはまるかもしれません。自分なりに例を考えてみると、例えば、学校現場では時々、教科書と異なる実験結果に対して「実験が失敗した」という表現を使う教師が見られます。教師の持つ認識論的価値観が理科授業に表出した事例として解釈できるでしょう。

2つ目は、文化に埋め込まれた価値観です。例えば、17世紀に誕生した近代科学は、キリスト教と密接な関係にあり、当時の科学者は自然が神によってつくられたものであるという価値観を有しており(cf. 宗教と科学)、そのような価値観は科学研究にも影響を及ぼしたものと考えられます。

3つ目は、科学の中から生まれた価値観です。価値観は文化や社会の中から生じたもののみならず、科学の中から生まれることがあります。例えば、遺伝子組み換え食品に対する根強い懸念は、その安全性について疑問を呈した初期の一部の研究から生まれた価値観であり、科学の中から生まれた価値観であると考えられるかもしれません。

このように、科学者や科学教育者の持つ価値観は、様々な形で実践に影響を及ぼすと考えられます。ここに、本書を通して科学教育の価値観を検討していく理由があります。

まとめ

今回の読書会では、読書の対象となる本の前書の内容を復習し、科学教育が value-free ではないことや、理科教育の価値の古典的な分類を確認しました。次に、対象本の「The Shifting Sands of Values in Science Education. An Introduction」の章を確認し、科学教育の価値観について考える重要性を整理しました。

今後は、毎週1章ずつ読み進めていく予定です。私たちはいつでも参加者を歓迎します。興味がある方は遠慮なく連絡ください!

Acknowledgement

この記事の草稿に有益なコメントくださった、雲財寛さんとその他の方々に感謝します。

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