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親のあやつり人形だった自分

物心がついた頃の記憶の大半が、
お酒を飲んだ父が母に、
怒鳴りつけては
手元にある食器を投げつけたり
暴力をふるうシーンだ。

暴力の翌朝は、
何もなかったかのように優しい父が、
不思議でならなかった。

母は、仕事に行く時に、
大きめの色のついた眼鏡で、
アザを隠していた。
腕に傷がある時は、
夏でも長袖を着ていた。
肌が白いので、
アザが目立ちやすかった。

そんな光景を見て育った私は、
幼い頃から、
常に父の顔色の変化を見逃さないよう、
機嫌を損ねないよう
ビクビクしながら、
神経をすり減らしていた。

心配するあまりか、
自分の思い通りにならないからか、
体調の悪い家族がいても、
不機嫌になる父だった。

父は、潔癖症でもあり、
テーブルや椅子の定位置がズレる事、
家具に傷が付く事、
糸くず1本落ちている事、
電気の消し忘れ、
扉の開け閉め音、
靴の揃え方、
洗濯物の分け方、干し方、
食器の洗い方…
これら全てが守られていないと、
また機嫌が悪くなり、
大声で怒鳴る。

書ききれない程の、
拘りと自分ルールに縛られていた。

忘れられない日の記憶の一つで、
母が父の暴力の後、
一人で実家に逃げてしまった事がある。

父に言われ、
私が母の実家に、
電話した記憶までしか無いのだが、
母が、私たちを置いて出て行った…
という、辛くて不安な記憶。

私が悪い事をするから、
母に暴力を振るうのでは無いか…
という、
極端な思い込みで
不安と恐れを抱えた幼少期だった。

何か話したい事があっても、
まずは飲み込む。
よく考えて、
父の望むような言葉を探す。
父の望むタイミングで話す。

その繰り返しをしているうちに、
自分の気持ちに蓋をするようになっていった。

自分の気持ちより、
父や回りの人の気持ちが優先。

父は、母や私たちを束縛した。
厳しい門限。
母が仕事以外で、
人と会うことを禁じていた。

抑圧、束縛、強制、支配

そんな環境だったので、
何をしていても、
父に監視されているようで、
楽しむ事ができなかった。

父は旅行好きだったので、
キャンプやスキー、
旅行へ、
良く連れて行ってくれた。

普段は、とても優しい父が、
急変する瞬間が恐怖で、
楽しめなかった。
父のご機嫌を損ねないよう
楽しいふりをした。

私が高校生時代は、
酔っては大声をあげる父を、
いつ、殺そう…
酔って寝ている時に殺そう…
今日こそ、殺す…
などと、考えるようになっていた。

殺してしまった後の、
母や兄の人生を、
想像する理性を、
まだ持てていたから、
殺さずに済んだと思う。

もう私が殺すしか、
この状況からは、
逃れられない…
と、思っていた時期だった。

最近、母に
「幼い頃の私って、どんな子だと思ってた?」と聞いてみた。

「大人しい兄に比べて、活発な子だった」と…

それを聞いた時に思ったのは、
活発だったのは、
生まれ持っての性格なのかもしれないが、

成長過程での家庭環境により、
親の望むような、
子ども像に、
演じて来たんだよ…
という事。

常に父の顔色を伺い、
活発で、
笑顔で、
素直で、
従順な娘。

そんな自分を

『あやつり人形みたいだな…』

と、思い始めたのは、
結婚後、
初めてパートに出た先での
同僚との出会いが、きっかけだった。

また、私の経験談、
少しずつ書いて行きます。