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新婚なのに、寂しかった…


専業主婦でスタートした新婚生活は、
夫が毎日着るスーツを
ズボンプレスし、上下セットする。
アイロンかけたYシャツ、
ネクタイ、下着、靴下、ハンカチを用意し、
着るだけにしておいた。

新婚当時は、
職場が近かったので、
玄関で見送るだけで良かった。

夫が出勤した後は、
ゴミ出し、掃除、洗濯、
買い物、夕飯の支度…

時々、入院している義父のお見舞いに
行くのだが、目が見えず、
口数が少ない義父との会話は、
全く続かず、
コミュニケーションに困った。

義母は、仕事があり、
週1回着替えの入れ替えに
来る感じだった。 

義母と義姉、甥と4人で 
お見舞いに行く時も、
運転手は、妊婦の私だった。 

義父が、外出許可をもらい、
自宅に帰る時は、
私が迎えに行き
義父の手を引き、
車の乗せ降ろしをした。

夫は、休日出勤以外の休みは、
友人とドライブや旅行に行き、
家にいなかった。

私は、結婚がきっかけで、
住んだ土地で、
近くに友人もおらず、
孤独に主婦をしていた。

私の父は、潔癖症で、
家事に対してのコダワリも強く
洗濯、料理、洗い物、家の手入れ、
何でも器用にやる人だった為、

父と真逆な主人との生活は、
予想以上に大変だった。

帰宅したら、
靴下、Yシャツ、スーツ脱ぎっぱなし。
私は、それを拾い片付ける。

食事も上げ膳据え膳

忙しくて食べる時間がなく、
持ち帰って来たお弁当を
私が食べたり、
捨てたり…

お金以外の家庭の事には、 
無関心に見えた。

『自分が稼いだ金を、
お小遣いとしてもらう事に
納得が行かない』
という理由で、


毎月、生活費の数万円を
現金で渡してもらう
定額給付金のようなシステム。

世間知らずだった私は、
生活費のやりくりが上手くできず
自分の預金を切り崩し、
あっという間に、
使い切ってしまった。

主人に内緒で、
両親に金銭的援助を、
だいぶして貰った。

この頃の私は、
家計を任せて貰えない不自由さが
とても不満だった。

例えば、冠婚葬祭の費用など、
別にお金をお願いしないといけない時、
とても嫌な言い方をされる事が苦痛だった。

でも、これも慣れてくると、
私に与えられた以外の
お金の心配をせずに済む事が、
楽に感じるようになっていった。

妊娠中、
「妊娠は病気じゃないから」
と、買い物や家事も
一切手伝ってくれなかった。
夫に、不満を抱えながらも、
専業主婦だし、
夫を立てなければいけない!
と思い、
何も言えなかった。

そうは思いつつも、
夫に何か話す時は、
沢山不満を抱えてからで、
感情を抑える事ができずに
ぶつけてしまっていた。

そうなると夫も
売り言葉に買い言葉…
切り捨てるような言葉が返ってくる。

そんな繰り返しの日々で
私たちは
会話しなくなっていった。

『空気でケンカ』
『無視で抵抗』
『無言の攻撃』

こんな状態が
何ヵ月も続く事が多かった。

産婦人科検診も、
付き添ってくれた事は無い。 

里帰り出産で実家に帰り、
お産予定の病院で
健診を受けた時、

切迫早産の診断を受け、
入院する事に。

お腹の張りを抑える
薬を処方してもらっていたのだが、

予想以上に張りが強く
赤ちゃんの成長が遅れている為だった。

その日から
24時間ずっと、
点滴に繋がれ、できるだけ安静…
の日々が始まった。

入院中、夕方になると、
他の妊婦さんには、
仕事帰りの旦那様が、
毎日、会いに来る。
大切にされてるなぁ~
と、とても羨ましく
寂しい気持ちだった。

母が毎日、
昼休みや仕事帰りに来てくれて、
点滴に繋がれた
シャワーもできない私の足を
洗ってくれた。
看護師さんの了解が得られれば
シャンプーもしてもらった。

産婦人科病棟は、
毎日、陣痛が始まった人が
何時でも、入院してくる。

ある程度、
お産が進行するまでは、 
大部屋でうなっているし、

お産が始まると、 
夜通し、お産の叫び声が
聞こえてくる。

毎日、眠れなかった…

もう一つ辛かったのは、 
お腹の赤ちゃんに、
点滴で栄養を送っている為、
私の食事は、
低カロリーで味が無かった。

同室の方たちは、
美味しそうな食事を食べていた。

点滴を外したら、陣痛のように
お腹が収縮してしまうので、
トイレに行くにも点滴を連れて…

週に一度は、
針を刺している腕が腫れ、
外してもらうタイミングで
シャワーさせてもらった。

シャワーが終わったら直ぐ
別の血管に刺されるだが…
一時でも点滴からの解放が
嬉しかった。

一ヶ月の入院中、
父と母、遠方に住む兄夫婦が
見舞いに来てくれた。

友人が
実家に何度電話しても、
「娘はちょっと出かけています」
と母に言われたらしく

『さすがに、何かあったんじゃない…?!』
と考えた友人2人が、
病院に訪ねて来てくれた。

友人が心配して探してくれた事が
とても嬉しかった。

肝心な夫は、
電話しても、面倒くさい感じで、
仕方ないから1回行くよ…と、
ドライブがてら寄ってくれたが、
5分も滞在せずに
帰って行った。

私とお腹の子への愛情は…?!
と思い、悲しくなった。

妊娠37週になった頃、
赤ちゃんもギリギリ
生まれても大丈夫な体重に近づいた
と言って頂いたので、 
「一度、退院したいです!」
と、お願いした。

あまり動かない事を条件に
退院させてもらえた。

赤ちゃんの肌着や、
必要な物の買い物も済ませた。

買い物で、同級生に会った時は、
私のお腹が小さ過ぎて、
臨月とは思えない…と言われた。

確かにパッと見、
妊婦にすら見えない感じだった。

赤ちゃんが産まれる前に
どうしても食べたい物があり、
友人に、
レストランへ連れて行ってもらった。

昔好きだったカレーパスタを、
どうしても食べておきたかったのだ。

満足して帰宅し、
入浴後、寝ようとしたら
陣痛が始まった。
陣痛の間隔を見ながら、
横になっていた。

朝方、ハッ!と目覚めたら
間隔が5分になっていた。

急いでシャワーを浴び、
心配すると機嫌が悪くなる父には
「ちょっと病院に行って来るね」  
とだけ言い、
タクシーで病院へ。

母が会社からかけつけた時、
「初産だから、
どの位かかるかわかりません」と看護師さんに言われ、
入院の荷物を取りに行ってくれた。

入院中に、
多くの妊婦さんの雄叫びを
聞き過ぎた為、

「まだまだ、こんなもんじゃ無いだろう…」と、歯を食いしばった。

予定より1週間
早く産まれてしまったが、 
ギリギリ未熟児では無く安心した。

お産の後、
二時間程は分娩室で休んでいる間、
先にお産した方がカーテン越しに
話しかけて下さった。   

「夜中にも女の子が産まれて、
午前中に私も、女の子産んだから、
今日産まれた子、皆、女の子」
と聞いて、
少し心強い気持ちになった。

遅れて到着した母は、
赤ちゃんを見てから
仕事に戻り、
夜に父を連れ、
また会いに来てくれた。

父も、初孫でとても嬉しそうだった。

私は、体の痛みで起き上がれずにいた。

前日からの陣痛で
あまり寝ていないのに、
お産の傷や体の痛み、脳の興奮で、
一睡もできなかった。 

お産したのが金曜日だった為、
夫が会いに来たのは翌日だった。  
私を見た第一声は、
「老けたね」だった。

『一生分のパワー使ったから、
老けもするわ!』
と、心の中で思い、 
優しい言葉を期待しても
無理だなぁ~…と思った。

照れ隠しの言葉だった事に
気づけたのは、まだまだ先の事だ。

小さく生まれた我が子は、 
他の赤ちゃんより授乳回数が多い。

飲ませては、絞る作業をしていると、
あっという間に、次の授乳時間になる。

そんな寝る間も無い産後の入院生活で、
『これから私は、
この子を育てていけるのだろうか…』
という不安と寝てない思考で、
夜中に涙が止まらなくなった…
看護師さんが、優しく励ましてくれて、
思う存分、涙を流せたのだが、
 
後に、この涙は、
産後のホルモン状態のせいだと知った。
妊娠中のマタニティブルーは
知っていたが、
産後にもそんな事が待っていたとは。

10月の終わり頃に生まれたので、
退院する日は、
とても寒かったのを覚えている。