横浜ベイスターズ暗黒史(TBS時代・前編)
こんにちは、陸前オキョウです。
前回は横浜大洋ホエールズがベイスターズに改称し、38年ぶりの優勝と日本一を成し遂げたものの、親会社の不振から身売りしたことまでを書きました。チームはテレビ局のTBSに引き継がれることになるのですが、TBS体制となってチームは崩壊の一途を辿ることになるのです。今回はTBSがどのような運営をしてベイスターズを崩壊させたかを書いていきます。
親会社交代で早速揉める
2001年オフ、横浜ベイスターズの親会社マルハは、本業の不振からベイスターズを売却すると発表。ベイスターズ球団の株主構成は、筆頭株主のマルハが約54%、ラジオ局のニッポン放送が約31%、そしてTBSが約15%の株を保有しており、本来第2位株主のニッポン放送への球団売却が予定されていました。しかし、ニッポン放送の関連会社であるフジテレビが同じセントラル・リーグの東京ヤクルトスワローズの株を保有していたことから「野球協約に抵触するのではないか」と指摘する声が上がるようになります。
一度はNPBからの承認が下り、ニッポン放送への球団売却が決定したかに見えましたが、間もなくして読売ジャイアンツ渡邉恒雄オーナーが「横浜球団のニッポン放送への売却は野球協約に抵触する」と発言し、横浜、ヤクルト以外の10球団がこの意見に賛同。ニッポン放送及びフジテレビはスワローズ株を手放さない姿勢を強めたことで、ベイスターズは宙ぶらりんの状態となってしまいます。そこで白羽の矢が立てられたのが、当時ベイスターズの第3株主だったTBSでした。最終的にTBSが球団株の51.5%を保有して正式に買収することが決定しましたが、このような経緯で親会社となったことで、球団経営の詰めの甘さが散見されることとなるのでした。
正捕手を失ったチームの崩壊
親会社がマルハからTBSに交代し、新たな船出となった2002年シーズンでしたが、チームは開幕から怒涛の5連敗を喫します。5月には13連敗を記録し、最終的に86敗しての最下位に終わります。日本一の栄光からわずか4年でチームは低迷することとなったわけですが、一体なぜここまで崩壊してしまったのでしょうか。
原因としては森監督の管理野球がチームに合わなかったこと、そして正捕手だった谷繁元信の移籍が挙げられます。捕手は扇の要とも呼ばれ、投手の投げるべき球を采配したり、ランナーが走りそうな時には内野にも警戒したりと高い頭脳戦が求められます。捕手のリード1つでチームは強くもなり弱くもなる重要な存在です。前年シーズンまでは98年のV戦士でもあった谷繁選手が正捕手として君臨し、巧みなリードを見せつけていました。しかし、前章でも書いたように森監督との確執から前年オフに中日へ移籍。2番手捕手であり、後に正捕手に成長する相川亮二選手の存在はありましたが、これまで長い間主力だった谷繁選手の穴を埋めることは出来なかったのです。最下位に沈んだことで森監督は今シーズン限りで解任となり、翌年からはチーム生え抜きの山下大輔新監督が指揮を執ることになります。
東海大学問題
ベイスターズはかねてより、2002年ドラフト自由枠で、東海大学の久保裕也選手の獲得に動いていました。久保選手自身もベイスターズ入りを希望しており、久保選手は順当にプロ入りを果たすものと思われました。しかし、ドラフト直前になってベイスターズ側は一方的に約束を破棄し、別の選手の獲得に動き出したのです。久保選手、東海大学双方がこの行為に激怒し、2012年に親会社がDeNAとなるまで、東海大学はベイスターズに一切選手を出さないと宣言する事態に発展します。
久保選手を獲得に動いていたベイスターズの長谷川スカウトはフロントの了承を得た上で東海大学と久保裕也に約束をしていましたが、当のベイスターズフロントはなぜか久保選手を見捨ててまで、立教大学の多田野数人選手を獲得しようと動き出します。しかし、この頃多田野選手はとあるビデオに出演していたのではないかと疑惑が浮上しだします。かの有名な810先輩の件ですね。そのため他の球団は多田野選手の指名は回避する方針を取っていましたが、ベイスターズだけは多田野選手獲得にこだわり、最終的に多田野選手の獲得をも見送ってしまうことになります。
翌年になってもこの騒動は尾を引き、フロントの独断によって東海大学出身の選手やコーチを一斉に解雇する事件まで起こります。このエピソードは、親会社がTBSとなって最初の大きなトラブルとして広く認知され、またフロントの独裁によって成績に関係なく簡単にチームを追われるということを選手たちが察して、チームの士気を著しく低下させました。
山下政権での若手の台頭
大洋ホエールズ時代のスター選手だった山下大輔氏を監督に迎え、2003年のシーズンが幕を開けます。監督の名前から、「大ちゃんス打線」と命名されたこのシーズンは新外国人のタイロン・ウッズ選手が40HR87打点、打率.273、ルーキーの村田修一選手は25HRをマークするなど、打撃陣は好調ぶりを発揮したものの、投手陣が軒並み崩壊。失策数は114、チーム防御率も4.80とリーグ最下位を記録して最終的には45勝94敗1分で、借金は49。優勝した阪神とは実に42.5ゲーム差、5位の広島とも22ゲーム差を離れてのぶっちぎり最下位となりました。オフには投壊の責任を取り投手コーチを務めていた遠藤一彦氏、森繁和氏が解任されました。この森コーチは翌年から落合ドラゴンズの一員として、中日黄金時代を作り上げることになります。
山下政権2年目の翌2004年は、1998年優勝の立役者であり、メジャーへ移籍していた大魔神佐々木主浩を獲得。さらに前年からの打者育成が功を奏し、本塁打王を獲得したタイロン・ウッズや佐伯貴弘をはじめ多村仁志、内川聖一などの打撃陣が軒並み好調でチーム打率は.279を記録。勝率も3年ぶりに4割を超えるなど復調を予感させるシーズンでしたが、最終的には前年同様最下位に終わってしまいます。シーズン終了後、山下監督は来季の続投か解任かの話し合いが持たれるはずでした。結局2年連続最下位の責任を取り解任となるのですが、球団及び親会社から一切の説明はなく、本人が解任を知ったのは一般のマスコミ報道によるものだったのです。この球団の姿勢にコーチ陣は激怒し、自分たちも辞めると発言しますが、山下監督や松原ヘッドコーチが「責任を取るのは俺たちだけでいい」と説得し、なんとかベイスターズに留まってもらいます。また、オフには明治大学の一場靖弘に対する裏金問題が明るみになり、当時のTBS砂原オーナーが引責辞任するという事件が発生。
後任となる新オーナーを迎えることとなるのですが、これがきっかけで横浜の暗黒時代はさらに悪い方へと転がっていくこととなります。
これ以上を書くと長くなりそうなので、今回はここまでとします。次回はいつになるかわかりませんが、新オーナー体制となってからの暗黒時代、そして暗黒の終わりまでをまとめたいと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。
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