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横浜ベイスターズ暗黒史(マルハ時代編)

こんにちは、陸前オキョウです。今回からブログを始めることにしました。更新頻度は期待しない方がいいですが、どうぞよろしくお願いします。
そんなわけで第1回は野球の話を書きたいと思います。私が贔屓にしているプロ野球球団の横浜DeNAベイスターズは、時代とともに横浜大洋ホエールズ→横浜ベイスターズ→横浜DeNAベイスターズと変遷し、全国のファンと苦楽を共にしてきました。今回はそんなベイスターズの球団史に大きく影を落とす、暗黒時代について解説していきます。

チーム名の変更と日本一までの道のり


1993年、当時の親会社である大洋漁業はCI(コーポレート・アイデンティティ)の導入に伴い、社名をマルハに改称すると発表。それにより、保有するプロ野球球団の大洋ホエールズもチーム名の変更をすることとなり、チーム名を新たに「横浜ベイスターズ」にすると発表。これは当時のオーナーである中部慶次郎氏の「商業捕鯨の規制が強まっている以上、これ以上クジラに頼ることは出来ない」という意向によるものでした。横浜という地に根ざした地域密着を掲げ、またチーム名のベイスターズは横浜ベイブリッジにあやかったもので、新生ベイスターズは文字通り地域に愛される球団を目指していきます。

画像:Amazon 商品ページより

近藤昭仁新監督のもと、1993年のシーズンが幕を開けますが、初年は5位に終わり、翌94年は最下位、95年も4位と、なかなかBクラスから脱却できないシーズンが続きます。しかしながら進藤達哉、盛田幸妃、鈴木尚典といった若手が台頭し、徐々にチーム力は向上していました。こうした状況で手応えを感じていた近藤監督ですが、95年オフに志半ばでの解任となり、後任には近藤体制でバッテリーコーチを務めた大矢明彦氏が就任しました。

大矢明彦氏 画像:Kyodo News Images

大矢監督体制の1年目は、4月こそ首位で駆け抜けるものの徐々に失速。セ・リーグ5球団に負け越しての5位に終わります。巻き返しを図る2年目の97年は、序盤は不振が目立ったものの、次第に勝ちが先行するようになります。7月は13勝5敗、8月は20勝6敗と快進撃を続けますが、優勝への天王山となる9月のヤクルト戦、先発の石井一久にノーヒットノーランを許し、ここから失速。しかしながら8月までに積み立てた勝ち星が光り、ベイスターズとして初となるAクラスの2位でシーズンを終えます。好成績を残した大矢監督体制でしたが、2年契約が満了となることに伴い、97年シーズン限りで退任し、後任には一軍バッテリーチーフコーチだった権藤博氏が就任するのでした。

権藤監督体制での日本一

リーグ優勝に歓喜する横浜ナイン
画像:カナロコ・神奈川新聞

権藤監督の新体制となり、シーズンスローガンを「Get The Flag!」として迎えた1998年。シーズン序盤は5割の戦いを演じ、貯金を抱えた3位を推移していたベイスターズですが、5月頃から「マシンガン打線」と呼ばれる強力打線が火を吹くようになると、チームは徐々に勢いに乗り、ついに広島を抜き首位に浮上。1番石井琢朗、2番波留敏夫、3番鈴木尚典から始まる強力打撃陣は、まさに打ち始めると止まらない機関銃のような猛攻を見せ、「マシンガン打線」はこの時期の横浜を象徴するワードとなります。先発投手陣もこの年13勝を挙げた野村弘樹を筆頭に、斎藤隆、ハマの番長三浦大輔と豪華な顔ぶれが集結。そして何より「ハマの大魔神」絶対的守護神の佐々木主浩投手の存在が輝き、10月8日、甲子園で迎えた阪神戦に勝利し、1960年以来38年ぶりのリーグ優勝を達成。勢いそのままに日本シリーズではパ・リーグ覇者の西武ライオンズに4勝2敗で勝利し、見事日本一の栄光に輝きます。この年は投打がガッチリ噛み合っただけでなく、選手の自主性を尊重した権藤監督の采配も功を奏し、横浜旋風を巻き起こしたのでした。

横浜に漂う不穏な空気〜そして身売りへ

世紀末の1999年。権藤監督の2年目で、連覇が期待された年でしたが、開幕から6連敗と出遅れます。この年のマシンガン打線は前年以上に打ちまくり、チーム打率.294を記録するなど打撃は好調でしたが、課題となったのは投手陣でした。チーム状態が上向き始めた5月以降も投打の噛み合わせは悪く、先発投手陣が打ち込まれる展開は続きます。最終的に優勝した中日に11ゲーム差をつけられる3位に終わりますが、3年連続でAクラスを守りきり、強豪チームの1つとして名を馳せるようになります。しかし、シーズンオフには大魔神佐々木がメジャーへの移籍を発表し、抑えの切り札を失います。2000年もAクラスとなる3位でシーズンを終えますが、この年のオフに駒田徳広、ロバート・ローズが退団し、 98年の優勝を支えた主力たちが抜けたことで、戦力の低下を喫します。さらにこの頃になると権藤監督の姿勢に対する不満が顕在化することになります。

チームを日本一に導いた権藤監督
画像:横浜DeNAベイスターズ

権藤監督は選手たちを大人扱いし、個々の自主性に任せる、いわゆる放任主義の監督でした。1998年の就任時に選手たちに指導した言葉「皆さんはプロですからプロらしくやってください」が、それを証明しています。しかし、チーム状況が悪化し、防御率が悪くなる中でもミーティングを行わず、試合中のバントやエンドランの指示もほとんど出さないやり方に選手たちは不満を持つようになります。そのため選手会長の石井琢朗氏は、監督と話し合うため全員参加のミーティングを開催しますが、監督と選手たちの溝は埋まることはありませんでした。2000年オフに、権藤監督は今季限りでの退任を表明し、新たな監督を招聘することになります。ところが、球団社長であるマルハの大堀隆氏は、選手たちが不満を持って権藤監督を追い出したのではないか、という認識をしていました。そこで大堀氏は、放任主義の権藤監督とは正反対の管理野球を徹底し、西武ライオンズ黄金期を築いた森祇晶氏を監督に招聘しますが、これが暗黒時代突入の第一歩でした。

新監督となった 森祇晶氏
画像:時事通信社

2001年は権藤監督時代から引き継がれた戦力が多く残っていたため、3位に踏み止まりますが、今までと全く違う森監督の管理野球に選手たちがついていけず、徐々にチームが崩壊し始めます。森監督の方針はプレー中に留まらず、私生活に関しても、あれはダメこれはダメと徹底的に管理するものでした。そのため選手たちは森監督に対しても不満を持つようになりました。さらにシーズンオフには正捕手として長年チームに貢献してきた谷繁元信氏が、森監督との確執から中日ドラゴンズに移籍します。谷繁氏は攻めのリードを得意としており、前任の権藤監督、大矢監督からも絶賛されていました。それを森監督は「谷繁はあのリードでよく正捕手が務まったな」と痛烈批判。谷繁氏は初めこそ森監督の隣で、指示をよく聞いていましたが、陰で自身を非難する森監督のやり方に嫌気がさしてしまったのでした。

谷繁元信氏(右) 画像:Kyodo News Images

このように、チームに合わない監督を招聘したことで内部がゴタゴタになってしまったベイスターズ。2001年オフには親会社のマルハが本業の不振から球団の売却を発表します。球団史上初の身売りを経験したベイスターズは、テレビ局のTBSに引き継がれることになるのですが、TBS体制となってからチームはさらに崩壊することになります。長くなってしまうため、TBS時代のお話は次回書きたいと思います。最後まで読んでいただきありがとうございました。

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