波瀾万丈な人生を経て、「筋トレ」に出会って圧倒的な勝ちを取りに行く人生


初めまして、1987年11月30日、愛知県名古屋市生まれ、津島育ちの伊藤里奈です。

自分の人生を文章にするのは初めてなので、至らない点が多々あると思いますがお付き合いしていただければ幸いです。


幼少期

会社を経営する父と専業主婦の母の元に産まれ、3歳まではごく平凡な幸せな家庭に育ったと思います。

画像1


父は人当たりが良く、温厚な性格で飲んでも変わらない酒豪。

母は愛情が深く、料理は得意じゃないですがいつでもお酒を片手にキッチンに立っている酒豪。

両親共に飲んでも全く変わらない酒豪の元に産まれました。

祖父が初孫のわたしを溺愛しており、すでに肝臓ガン末期を患っていた祖父に会いに行く為、毎週末母はわたしを連れて実家に帰っていました。
最愛の祖父はわたしが5歳の時に56歳という若さで太く短いバブリーな生涯を終えました。

毎週末、家で1人の父親。そりゃ浮気しますよね…

5歳の時、父親の浮気が発覚し、離婚。
この時から18歳まで父親には一度も会えませんでした。
母が断っていました。

小学校に上がると同時に、母の実家に引っ越し、祖母と叔母と母の4人で暮らし始めました。

母は実家に引っ越した同時に仕事に復帰したので、祖母がわたしの身の回りの事全てをやってくれました。

幼稚園の頃から無駄に体力があったので、祖母が新体操教室にいれてくれました。

この新体操を始めた事でわたしの人生はガラッと変わりました。

小学生時代

始めた瞬間から新体操の魅力にどんどんハマっていきました。


補助的にクラシックバレエも習い始め、この頃のわたしは本気でオリンピックに出場したいと考えていました。壁にぶつかるまでは。

日曜日以外は毎日新体操教室。

水曜日はバレエ。

今思えば送り迎えが本当大変だったと思う。

なんといっても苦労したのが体の硬さ!!!

毎日毎日、先生に泣きながら押してもらって柔軟していました。

毎年毎年大会に出場していき、高学年になるにつれて体の成長とともに自分の限界が見えてくるようになりました。

何年頑張り続けてもずっといい成績が残せなくなっていきました。

一緒に始めた友達との成績の差もついていき、徐々にもうやめ時なのかなと考える様になりました。


中学生時代

わたしは中学受験をし、中高一貫の学校に通っていました。
まだ新体操は続けていたのですが、学校の部活も始まり週に一回か2回程度しか行けませんでした。

中学で選んだ部活が
「バトントワリング」

またここからのめり込みました。

小学生から新体操をやっていたお陰で、みるみるうちに上達していきました。

動きは新体操のままなので、あとは技術を身につけるだけ。

新体操と並行しながらバトントワリングを行なっていましたが、まだまだ大きな大会には出場していませんでした。

この時にバトントワリングに転向しようと決意し、9年続けていた新体操をやめることにしました。

お世話になった師匠、仲間との関係は今でも切れません。
結果を残せなくて悔しかった事。ずっと同じクラブにいたかった事。泣きながらやめた事。
でもこの新体操をやってきた事が無ければ、バトントワリングでいい成績を残すことはできませんでした。

中学では団体がメインでしたが、少しずつ個人競技にも挑戦していきました。


部活に捧げた高校時代

高校生になり、母が再婚したいと言い始めました。
もちろん賛成。

わたしは当たり前の様に、再婚相手の方と母親、わたしの3人で暮らし始めるのかと思っていました。

ところが母は、
「新婚だから、新しいお父さんと暮らすね!」
と言い残し、わたしを実家に置いたまま再婚してしまいました。

この時、一緒に住んでいた叔母も結婚し、祖母と2人暮らしでした。

ですが母が家を出たのを気に、どんどん私自身も家に帰らなくなりました。

朝練→学校→部活9時まで→夜遊び

こんな毎日を繰り返していました。

「親なんていらない」

毎日思っていました。

しかし、ずっとずっと面倒をみてくれた祖母は叔母が家をでて、母親も再婚し、わたしが家に帰らなくなり、家事をやる事も減り、ゆっくりと認知症が進んでいた事はわたしは全く気がつきませんでした。

部活だけは真面目にやっていました。

この当時はまだ、水も自由に飲めない時代でした。
少し髪が明るいだけで、連帯責任でビンタされたり…
今思うと恐ろしいですね。

ただ、死ぬほど負けず嫌いなわたしはその環境がとても合っていたんだと思います。

コーチに怒られて、むかついて、絶対良い結果を残してやると。

東海大会の時、初めて個人競技で優勝を飾る事ができました。
初めて個人競技で手にしたメダルは今でも大切に飾っています。

団体競技では
「ウエストサイドストーリー」をテーマに演技しました。

何度も何度もみんなで映画を見て、振り付けを確認し、衣装を話し合い、カツラをつけながら大会に出場した事は今でも忘れません。

土日も春休みも夏休みも毎日毎日部活の毎日。

コーチに怒鳴られながら、みんな泣きながら必死でした。
でも必ずみんなでいい結果を残したい。
これだけでした。

当時はまだ体育館にエアコンもついていませんでした。
脱水症状で倒れる子もいました。

それでもみんなで100%出来るまで、先輩後輩関係なく何度も何度も喧嘩の様なミーティングを行い、
埼玉スーパーアリーナで行われた全国大会。
東海大会を通過するだけでも大変で、やっと出られた全国大会。

ここで全国大会で2位という結果を残す事が出来ました。

1位はあの有名なPL学園。

圧倒的1位でしたし、わたし達はこの結果に後悔はありませんでした。

死ぬほど努力して寝る時間も割いて、勝ち取った2位という結果に悔いはありませんでした。

この時みんなで作り上げた作品は今でも大切な思い出ですし、生涯の糧になっています。


夏で部活は引退。
推薦で行きたかった大学は落ちてしまい、部活に充てていた時間が、余る事でどんどん悪循環になっていきました。

大切な人との別れ

高校をなんとか卒業したわたしは、夜の街に染まっていきました。

夜の世界がキラキラして見えて、周りの人達は綺麗で。わたしもこんな風になりたい。No.1になりたいと。
ここでも負けず嫌いが発揮します。

朝から晩までお客様とコミュニケーションをとり、どうしたら指名が取れるか。お給料ももちろん大事ですが、この時は更衣室に貼ってある、成績グラフを上げたい。それだけでした。
自分の身銭を切ってでもお客様の誕生日をお祝いしたり、ただただ会話の幅を増やして指名がもらえるようにゴルフを始めたり、、
毎日グラフと締め日との戦いでした。

20歳の時、お店で出会った方と結婚をして、夜の街から卒業しました。

子供を1人授かり、母は初孫をかなり溺愛しており会うたび会うたび洋服やおもちゃを買ってきていました。
しかし会うたびに何故か母のお腹が少しずつ膨らんできていた事にわたしは気が付きませんでした。
わたしは2人目を妊娠中でした。
まだ年が明けた頃、一本の電話が入りました。
「母が胃潰瘍で救急車で運ばれた」と。
玄関先で血を吐いて倒れていたそうです。
母は極度の病院嫌いで少し位体調が悪くても絶対に病院に行かなかったので、詳しい検査などをしていなかったのでしょう。
検査の結果は胃潰瘍だけでなく、肝硬変末期でした。
入院した瞬間に医師から伝えられたのは、
「もって一ヶ月でしょう」という、いつ死んでもおかしくないという言葉でした。

お腹が膨らんでいたのは、腹水が溜まっていたんです。肝硬変の末期は腹水が溜まります。
どうして気づかなかったのか。もっと強く病院に行けと言えば良かったと。
今でもとても後悔しています。
治療は肝臓移植しかなく、家族が交代で24時間付きっきりでした。
わたしは妊娠中で移植はできず、叔母しか出来なかった為、肝臓を整えるのに一ヶ月ほどかかると言われました。しかし間に合わず、入院し、医師の言う通り一ヶ月余りで母は他界しました。

悲しんでる暇もなく、通夜、お葬式が終わり、わたしは妊娠後期でした。
親戚に
「葬式の後に子供産まれるとかやめてよー!」と冗談を言われていました。
が、葬式を終えて家に帰って休んでいた時にすぐに陣痛が始まり、葬式の次の日に出産になりました。

もう家族は葬式が終わって、すぐ次の日に出産という事でドタバタだったのを忘れません。
しかし少し早めに産まれた2人目は、チアノーゼで別病院へ救急車で運ばれました。

わたしは母親を亡くしたてで、2人目はチアノーゼで緊急搬送。
この時から少し鬱が入ってきていたと思います。
一人で病室にいても眠れず、普通は出産後は5日入院するのですが、3日で退院しました。

退院したあと、2人目の体調が良くなった為、迎えに行き病院で受付をしている時に起きたのが東日本大震災でした。

親を亡くし、東日本大震災がおこり、主人は夜勤なので夜は1人。赤ちゃん2人を抱えて家事と育児に追われて、わたしはどんどん鬱の症状がひどくなっていきました。

それと同時に娘に先立たれた祖母の認知症がどんどんひどくなり、少しずつ介護が始まっていきました。

目まぐるしい日々を送る中、主人が会社を立ち上げると言い出し、生活が出来ないのでまた夜の街に戻ることに。

紹介で入った老舗クラブ
ミス日本、モデル、女優さんが在籍しているクラブ。

そこでは毎日ショータイムが行われていました。
また始まります。

「ここで1番になりたい。」

元々踊っていたので、ショータイムは本当に楽しかったです。
ただお客様とのコミュニケーションの取り方は、18歳の時とは180度違いました。お店を盛り上げる為にはどんなステージを作ったらいいか。
休みの日にも深夜まで練習をしてステージを作っていきました。

画像2

(まだ顔がパンパンな頃)

1番になるには、どれだけお客様の事を考えられるか。大切に思って行動したらその分だけ返ってくると。

子育てと仕事に明け暮れる日々は充実していましたが、主人と過ごす時間はどんどんなくなっていきました。

それと同時に少しずつ距離が出来ていき、仕事に対する思いはわかってもらえず結婚生活は7年で終えました。

シングルマザー筋トレとの出会い

シングルになったこともあり、昔お世話になっていた新体操教室のお手伝いもさせていただける様になりました。

小学生から高校生まで。

振り付けを作ったり、合宿をしたり。

自分でやるのと、選手を育てるのは全然別物でした。頑張っているのになかなか結果が出ない選手。元々の素材が良くてすぐに結果が出せる選手。
コーチ同士で、どうしたら選手がいい方向に育つか何度もミーティングを重ねました。

学生時代の部活動をよく思い出しました。

みんなでいい物を作り上げていくという事が、部活動でもショータイムでも新体操教室でも内容は違っても共通点がありました。

母親業、教室、夜のお仕事、介護と毎日目まぐるしい日々を繰り返していました。
ある日、勤務中に一本の電話が。

「おばあちゃんが行方不明になった」という電話でした。

警察に捜索願いを出し、家族総出で探しました。
3日間見つからず、発見されたのは車の中で動けなくなっていたそうです。
道を間違えてから、帰り道がわからなくなり迷子になったそうです。

そこから歩けなくなった祖母の本格的な介護が始まりました。

これを機に、新体操教室を辞めることに。

母親以上に面倒を見てくれた祖母に少しでも恩返しが出来る様に。
叔母と交代で介護をしていました。

本格的な介護になってから2年、祖母は眠ったまま安らかに亡くなりました。
苦しむ事もなく。なぜか前日は認知症の症状もなく、しっかり食事も食べ、沢山話してくれたのを覚えています。
第一発見者はわたしでした。
親戚にも
「1番迷惑かけたから第一発見者になったんじゃない?」と冗談を言われるくらい祖母にはお世話になりました。
家で人が亡くなると大変ですね。
警察の事情聴取、死亡診断を出すまでにすごく時間がかかりました。

なんとかお葬式まで終わり、今でもすごく祖母に感謝している事、寂しさは残ったままです。

夜の仕事に復帰し、あるお客様に出会いました。

おしり専門の整体師の方でした。

整体師の先生に施術してもらってこんなにもおしりが垂れていたとはびっくり!!

ですが、先生に

「今は瞬間的に上がりますが、結局は筋肉つけないとまた元に戻りますねー」と言われ、

子供も産んで、何も考えず飲んで食べて運動していなかったらもう体は大変な状態でした。

家でトレーニングをしていましたが、物足りず近所のジムに入会しました。

そこで、ジムのグループレッスンを受けたときに出会ったトレーナーの方に言われたのが、
「大会とか興味ない?良かったら出てみない?」と声をかけていただきました。
SNSで色んな大会などを見ていて興味があったわたしはひとつ返事で「出たいです!」と答えました。

初めての大会から現在に至るまで

大会にでると決めてから初出場まで8か月

トレーニングの大変さも、減量の大変さもなにもわかりませんでした。
一から叩き込まれ、週3回のパーソナルトレーニング。大会4か月前からの減量。



(画質が悪すぎて申し訳ありません。)

毎日栄養バランスもなにも分からず、ただただカロリーを消費し続けて体重との戦いでした。

ですがこの時も夜の仕事は続けているので、なかなか減量はうまく進まず…
迎えた韓国での初大会。
自分の人生の中では1番絞れていると大きな勘違いをしながら挑みました。

二度見するくらい絞れてない写真です。
もー公開処刑でした。
周りはモデルや、女優だらけ。
ビキニを着て立っているだけで恥ずかしくて恥ずかしくて。右も左も言葉もわからなくて。
本当に悔しかったです。一刻も早くステージから降りたかった。悔しい思いを抱えながら帰国し、絶対負けないと心に誓いこの2か月後に名古屋で行われたFitness Starに出場しました。

ここでやっとビキニ競技で2位を獲得することができました。
韓国での大会は死ぬほど恥ずかしかったけど、あの悔しくて恥ずかしい思いがあったからそれをバネにして減量を進めていけたと思います。
でも減量方法は人の数だけあるし、この頃は何も分からず、寝る間も惜しんで有酸素運動ばかりしていました。

この頃から少しずつ、栄養学、ホルモンバランスなどを勉強していくようになりました。

友達に栄養の事を聞かれたり、減量の方法を聞かれたりするのが嬉しくなり、もっともっと勉強したいと思いトレーナーの仕事を目指す様になっていきました。

そして地元のスポーツジムに就職しました。
初心者の方から高齢者の方まで、コミュニケーションをとるのも、少しずつ体が変わっていく実感をしていただく事が本当に嬉しくて、少し変わるだけでモチベーションもどんどん上がっていくこと、お客様によってアプローチの仕方が違うこと。毎日が勉強になりました。

しかしこの頃から新型コロナウイルスが流行。
ジムは休業。大会も中止になり、わたしは資格を取る事に専念しました。
まだまだ勉強中ですが、
"アスリートフードマイスター" 
ストレッチポールを使った
"ベーシックインストラクター"を習得する事ができました。

ジムの休業が明けた頃、転職をし、現職に就きました。
現職の同僚ではわたしと同じ様に大会に向けて頑張っているメンバーもおり、今まで1人で大会に挑んできましたが、同じ大会に向けて頑張る仲間が初めてできた事から今までの何十倍、何百倍も頑張る事ができました。
それにより、8月に多治見で行われた大会では念願叶って優勝する事ができました。

そして初めて子供達に大会を見せてあげられた事。
子供達の目の前で優勝できた事はわたしの自信に繋がったと同時に新たな目標へとも変わりました。

この結果を出せた事により、トレーナーとしてのモチベーションも上がり、サポートさせていただいた方が初出場、初入賞を獲得し、そのことから更にお客様にダイエットだけでは終わらずその先への体を変えていく事から人生をも変わっていく事を実感していただきたいと強く思う様になりました。

優勝を経て、そのまま勢いにのろう!と思い9月に行われたFWJに初出場。
ノービス部門ですが、1位をいただく事ができました。


女性ならではの減量方法。
メンタルの維持。
無理のない体作り。

色んな角度からサポートできるようなトレーナーになりたいと思い日々勉強しています。

私の強みは

・負けず嫌い
・死ぬほどタフ
・欲しいものは絶対とりにいく
・コミュニケーション力の高さ
・有言実行
・打たれ弱いけど寝ればすぐに治るところ
・すごく健康


です!よろしくお願いいたします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?