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わたしは新しい洋服を着なくなった

子どものころから、ファッションに興味をもてなかった。

「洋服に興味がないわたしは変なのかな」と疑問に思うようになったのは、小学5年生のとき。きっかけは、友だちからのふとした一言だった。

「りほまるって、なんの雑誌読んでるの?」

「雑誌?」と思った。当時わたしが好んで買っていたのは「ちゃお」で、毎月お父さんに買ってもらっていた「小学5年生」は退屈に感じるようになったから、毎月1冊の文庫本を買うルールに変更してもらおうと交渉を始めたころだった。

訪ねてきた友だちは、グループの中で一番おしゃれな子だった。といっても、当時のわたしには「おしゃれ」という感覚がなかったから、「たくさん洋服を持っている子」程度の認識だったのだけれど。

「えー、なんにも読んでないよ」と事実をそのまま答えると、「読んだ方がいいよ。ピチレとか、メロンとか。」そう言われた。なるほどそれは、もっと洋服とかおしゃれとか勉強した方がいいよ、そういうことなのだろうと思った。

とはいえわたしには、『ビューティー・ポップ』を最後まで読み遂げなければいけないという強い気持ちがあったから「ちゃお」に使っているお小遣いを他のものにシフトはできなかった。そして、お父さんが毎月ファッション誌を買ってくれるとも考えにくい。だから、みんなが着ているものをそのまま「パクる」ことにした。

11歳のころ、アメカジによく登場するチェックシャツが流行った。とりあえずチェックを着ていれば大丈夫、と思ったわたしは、同じデザインのシャツを何色も買ってもらった。

当時流行っていた「ベティーズブルー」も、私自身がものすごく可愛いと思っていたわけではない。「みんなが買っていたからわたしも買っていた」だけだ。デニムのショーパンも、カラータイツも、甘辛ミックスも、森ガールも、わたしが好きだったわけじゃなくて、みんながしていたからなんとなく真似ていただけだった(ていうかみんなそういうの流行ったの覚えてる?)。

時は流れて、令和2年。わたしは家から出なくなった。新しい洋服は1枚も買っていない。

時間はたくさんあった。外出自粛が叫ばれ休日にやることもほとんどない今、通販サイトをパトロールするための時間はいくらでも捻出できる。それでもわたしは、服を買っていない。

思い返せば大人になってからも、わたしはわたしの「ほしい!」に従って洋服を買うことがほとんどなかった。無難なデザインのジャケットを選び、VネックかUネックかしか変わらないインナーを選び、歩きにくいパンプスを買う。「ちょっと汚れてきたかな?」と思うと、新しいものに買い替えた。

わたしが洋服を買うとき、その先には、いつも「会社」や、「わたしを評価する誰か」の存在があった。そしてそこに、わたしの意志はなかった。

家から出なくなって、同じパーカーばかりを着るようになった。何度も繰り返し洗って肌触りの柔らかくなったTシャツは、襟がヨレ始めたけれど着続けている。「会社に着ていくため」と買ったフェミニンなシャツは、自粛期間に何枚も捨てた。

毎朝服を選ぶとき、その先に「わたしを評価する誰か」が浮かぶことがなくなった。代わりに見つめるのは、「自分の心地よさ」だけだ。在宅でも会社に行くときと同じ服を着て緊張感を持とう……なんていう人もいるけれど、わたしにとっては、「心も身体も心地よくなれること」それこそが、洋服に求めるものなのだ。

ファッションが自己表現の手段である人もいれば、わたしのように、心地よさをまとうためのものと考える人もいる。物事に対する価値観なんて、みんな違って、みんな良い。

外に出られない期間にとことん自分と対峙するようになった。そしてわたしは少しずつ、自分にとって本当に必要なものとそうでないものを見極められるようになってきている気がする。

ネガティブなニュースばかりが目に飛び込んできて陰鬱な気持ちになる日々。その中にもきっと新しい発見や、それに寄り添う喜びがあるのだと、わたしは信じている。

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