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故人の肖像

この間、数年前に亡くした愛犬が夢に出てきた。
実家の畑で勢いよくにんじんにかぶりついたは良いものの、歯がにんじんに負けてて、可哀想だか可笑しいだかで複雑な感情になった夢だった。
賢い子だったけど、めちゃくちゃ食い意地張ってたなぁと懐かしく思っていた。

そこからふと思い返してみると、コロナが流行り始めてから、親戚と集まるなんていう機会も無くなってしまって…でも、親戚と集まると必ず故人の話になって、大笑いしたものだな〜と懐かしく思い出して、ちょっと書いてみようかな、と机に向かっている。

父方のおじいさんは大酒飲みで、休日になると、まるっと空になった一升瓶を枕にして寝ているような人で、当時飲酒運転の取締りなんてゆるゆるのど田舎で時速15kmの超低速で軽トラを走らせ、(走って余裕で追いつけたらしい)田んぼに突っ込み、おとんとおじさんが引き揚げに行く、みたいなことを繰り返していたらしい。

ある時は、兄が岐阜名物のイナゴの佃煮にハマった時期があり、それを聞いたおじいさんは、
「そんに好きなんやったら作ったるわ!」
とその辺でとっ捕まえたイナゴ(下茹でとか処理なんてもちろんしない)をフライパンでこんがりと醤油炒めにし、振る舞ったらしい。当時小学生の兄は不味くて食えたものではないその料理(というか醤油風味のバッタの死骸)を残そうとしたら、
「お前のために作ったったんに、食えん言うんかー!!」
と一喝され、泣く泣く食べさせられたらしい。

そんなおじいさんでも、何やかんや甘く、兄が家の前の田んぼを、
「ここ、俺ん土地や〜!」って勘違いしてたのを、亡くなるとき正式に実家の土地として相続してくれたという一面があるらしい。器が小さいんだか、大きいんだか。

わたしが3歳になるかならないかで亡くなっているため、おじいさんに関する記憶はほとんど無い。だから、わたしの持っているおじいさん像は、ほとんど親戚の記憶で形成されている。

他にも、曽祖母が干しすぎて真っ黒になった柿をご近所に配り歩くというほぼバイオテロを敢行したり(←祖母が全回収した)、大工だった母方の祖父が実家の増築時に隠し部屋を仕込み、図面を残さずに亡くなってしまったり(←2年前に約20年の時を経て開通した)と何でこんなにも色んな話が出てくるんだ、、、みたいなことがあり、その辺の小説より、足下掘ってた方が面白いのでは…と思い至ったりしている。

本当なんか…?と思うほどヤバい話が出てきたりもして、そのDNAが脈々と自分に受け継がれていることを疑うこともあるけれど、なんか、頼もしいというか、心強いなとも思う。
周りの記憶と自分の記憶で形成された故人の肖像はときに形を変え、ときには見えなくなりながら、それでもしっかりと、今、生を全うしているものたちの中に在る。