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あたまとこころ

どうにもならないことってあります。

たとえば、お気に入りのグラスを割ってしまうこと。
ガシャン、と音がして、え、となる。わたしだけかもしれませんが、あのとき少しの間、あたまが現実を拒否する感覚があります。割れているはずがない、どうか割れてないで、と願掛けする感じというか。
しかしきっちり割れているグラスを確認して、割れている、これは割れているな、そうか、割れたのか、とじんわり「どうにもならない」と理解します。

ここで言う「どうにもならない」とは「割れる前の状態には戻らない」という意味合いです。「どうにもならない」という言葉だけ聞くと、なす術がない、八方塞がり、ともとれますが、この場合グラス自体はどうにもならなくても、全てのことを「どうにもできない」訳ではないのが、言葉って難しいなぁと思います。
目の前のグラスを元に戻そうとするのはあまり意味がないし、かえって怪我をする。かといって、現実を受け入れず片付けないのも危なっかしい。そう冷静にあたまで考えて、「どうにもならない」状況のなかでも「どうにかできる」ことを探して、割れたグラスを片付けたり、掃除機を引っ張り出してきたり、ひとしきり悲しんだりする。

そのなかでも、ひとしきり悲しむことって意外と見過ごしがちな気がします。なんで手を滑らしちゃったんだろ、もっと気をつけていれば、なんて、あたまではぐるぐる考えるけれど、あれお気に入りだったのに悲しいな、とか、もう使えないの残念だな、といったこころの動きは知らんぷりして奥に追いやって、なかったことにしてしまいがちです。
そうして奥深く溜まったきもちが、思いがけないとき、たとえば次にまた何かを割ったときや、映画か何かで似たグラスを見かけたときに、「チクリとしない程度だけどたしかにこころを刺す何か」に姿を変えるような気がします。

2019年12月に開催した個展「あたまとこころ」の案内状に、わたしはこんな文章を添えていました。

あたまはここで こころはどこで
どんないろ どんなかたち
これはあたま これはこころ
いつからあたま いつからこころ
どこにあるか しらないくせに
傷はつくし いつかなおる

この文章の最後の一文を、当時のわたしは「ほったらかしておいてもいつの間にか傷は塞がって大丈夫になる」という意味合いで書いていました。でも今になってみると、傷がつくのもなおるのも自分の範疇外だと開き直っている印象というか、どこか自分不在で、日にち薬だけが頼りみたいな感じがしてちょっと投げやりだなぁと思ったのです。

割ってしまって悲しかった。思いがけずびっくりした。水飲もうとしてたのにダルい。あんなに大事にしてたのにツラい。
そういうちょっと惨めだったりみっともなかったりする自分を、自分がちゃんと知ってあげる。そうすることで「チクリとしない程度だけどたしかにこころを刺す何か」が減り、「いつかなおる」のかな、と。
日にち薬ももちろん大切だけど、どこに塗るかが分かってないとむずかしいってこともあるのかもしれないな、とこのたび思い直したのでした。

あのときお配りした案内状はどうにもならないので、ここにちいさく訂正させていただきました。
あたまとこころ、まだまだ掴めないものたちです。

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