強さと、弱さ

https://news.yahoo.co.jp/articles/a4a7c1db1d126eab0f07e609d99dd881a808a58e


私には引きこもっていた時期がある。

その時、彼のように誰にも助けられなかった。一人で出口を見つけ、一人で這い上がった。
「苦しいとき、きっと誰かがあなたを助けてくれる」
というのは、物語の中の偽善、もしくは叶わないからこその「そうであって欲しい」という願い、希望なのだと思った。

一番は親に理解して欲しい、特に母親との関係が拗れていたので、
「何故分かってくれない」という不満、絶望は、裏返せば「母親に理解して欲しい」「最低な私でも、見放さないで受け入れて、愛して欲しい」という願いがあったのだと思う。

でも、残念ながらそれは受け入れて貰えなかった。

今ならわかるが、 母もいっぱいいっぱいだったのだろう。
自分が産んだ子供に「死ね」と言われて、それでも冷静に、穏やかに、その子供が本当に何を叫んでいるのか汲み取れるようなことは、
普通できないし、いまの私にも出来はしない。

だから私は親に、他人に、「最低の、醜い、価値のない自分を、そうだとしても愛してもらうこと」を諦めた。

そして、皮肉なことに「本当に、心のそこから求める事を他者に期待すること」を諦めたことで、私は回復に向かうことが出来た。

期待しなければ、傷つくこともない。
親との関係もいまは見かけは「良好」だが、
それは親に深く求めることを止めたから。
私はそれが「親離れ」であり、精神的な「自立」だと思っていた。

だが、果たして本当にそうなのだろうか?

親に期待することを辞め、付き合った異性に淡い期待をかけてきた。
そして今、結婚して、起きている問題は、じつはその延長線上なのかもしれない。

「誰にも期待せず、自分のことと、自分がコントロールできる、傷つける言葉をしゃべらない猫だけを愛して、
後の一切合切を切り捨てる」
DaiGoさんの強さは、そのまま彼の脆さであり、弱さでもあると思うが、
それはそのままいまの私の問題でもある。


自分の要求に答えてくれないから、自分を愛していない、軽んじている、
だから切り捨てる。

それを裏返せば、
私もまた他人の要求や願いに答えることを拒否している、という事ではないか?

今、アイドリッシュセブンという作品に心酔しているのだが、こんな台詞があった。
「俺が間違っていても、優しくして」
これを、アイドルが自分の心を丸裸にして本当の事をぶつけて傷つけてきた相手の首を閉めながらいうのだけど。(どんな作品だよ)

でも、それは、私の言葉であり、
きっとDaiGoさんの言葉でもあり、
私の苛立ちを、願いを、希望を、ねじ曲がった愛情を受け止められなかった相手自身の言葉でもあるのだと思う。

私は、完全でなはい。
完全ではない私が、相手に完璧を求めるのは違う。

「間違っていても愛して」と言うなら、
愛していても正しく受け止められない相手も愛する事が出来るのではないか…

自分の希望が、願いが、切り裂けそうな痛切な思いが、受け止められないとしても、
それを諦めることはなかったのではないか。

完全に諦めれば、傷つくことはない。

でも、そうしたら、 もう愛すことも、愛されることもないのだ。

宝くじと一緒。

「買っても当たるかはわからない。
でも買わなきゃ一生当たらない」のだ。

私は宝くじを買ったことがない。
「どうせ当たるはずがない。その自分のお金が誰かの幸せになるのはシャクだ」

もったいないよな。
いつから私は自分に、人生に、他人に、社会に、世界に、期待をしなくなったのだろう。


期待なんかしても無駄だと、拗ねていてもしょうがない。
傷ついてもいいと、腹を括ろう。

外れてもいいんだ。
その代わり、くじを買うことで「夢」を、「希望」を買える。

何回失敗しても、何回裏切られても、
腐らず、拗ねず、斜に構えず、人を信じることの出来る自分でありたい。

そんな人の方が、私は好きだから。

いいなぁと思える自分でいたい。好きだと思える自分でいたい。


今年はサマージャンボ、買ってみるか!
(まだ売ってる?)

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