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私が妄想した日本古代史

妻や子供たちから、「パパは話が長い」とよく言われます。
職業柄、最初に従来の学説の課題を提起して、その課題を1つづつ解く論証を行い、最後に結論をまとめるような回りくどい話し方をしてしまう為だと思います。
これは、理系には必須の論法なのですが、話が長いと嫌われるので、まずは課題や論証は省略し、妄想した結論をまとめたいと思います。

日本古代史に詳しい方々には、「何だ、このトンデモない珍説は」と呆れたり、「日本を侮辱するのか」などと激怒される方もおられるでしょうが、まずはシロートの妄想としてご容赦下さい。とは言え、思想信条や政治的な偏向は全くなく、理系的な視点から学術的に考察して得た論拠に基づいた説であることを、後に1つづつ論証を行う予定です。

日本人のルーツ

日本人の祖先は、約3万8千年前に日本列島に到着しました。その頃は旧石器時代後期なので、マンモスなどの大型獣を追いかけて野山を移動し、石器で狩猟して火で焼いて食べる、いわゆる原始人のイメージです。

縄文文化の誕生

約1万6千年前に、彼らは土器を作りだし、縄文時代が始まりました。地球の気候変動で急に温暖化したため、マンモスなどの大型獣が日本列島から居なくなり、代わりに森林が生い茂り、栗などの木の実が食料になったためです。
彼らは山と海の中間に定住し、土器に水を張って木の実や魚や貝などを入れ、煮炊きして食べる、文化的な生活を始めました。世界の中で、日本だけがこのような定住生活をおくれる環境にあったため、これは突出した世界最古の文化です。

世界へ広がる縄文文化

彼らは小舟で近隣の集落と物々交換の交易を行っていたため、縄文の土器や翡翠や黒曜石などが、日本列島の全地域へ広がります。シベリアや満州などの日本海沿岸からも縄文の人々との交易の痕跡が見つかっており、日本海を海流に乗って反時計回りで周回する交易路があった様です。南米からも縄文土器が見つかっており、縄文の人々の一部は米大陸にまで移住していた様です。
縄文の人々は、人が居なかった朝鮮半島にも移住したため、朝鮮半島にも縄文文化が広がります。

水耕稲作の伝来

紀元前10世紀頃より、長江(揚子江)の河口より水耕稲作と遠洋航海の文化を持った民族が次々と九州に渡来し、現地の縄文系の人々と融和的に混血して、九州で弥生文化が始まりました。北部九州と南九州の各地に住み着き、それぞれ後に邪馬台国と熊襲になる2つの文化圏へ分かれて水耕稲作の集落群を築きました。

弥生時代・古墳時代の東アジア年表

出雲王国

紀元前4世紀頃、越の滅亡により海洋民が九州に逃れてくるも、九州には移民が居住できる土地がなかったため、さらに日本海沿いに東遷して、出雲の宍道湖岸に農地を見つけて住み着きました。彼らは争いを好まない平和的な民族で、現地の縄文系の人々と融和的に混血して水耕稲作を広め、出雲文化圏が成立します。
出雲文化圏は、縄文時代から強い交流があった北陸地方や上信越まで水耕稲作を広め、日本海沿いに広大な出雲王国を築きました。
さらに、出雲族の一部は丹波の山を越えて畿内へ移住し、葛城山の東西を開拓しました。奈良盆地には大和湖という巨大な湖の湖岸に水耕稲作に適した広大な沼地が広がっていたため、大変に栄え、後の大和朝廷となるヤマト文化圏ができました。

「秦」からの流民

紀元前3世紀頃、中国を秦が統一する過程で流民が東遷し、朝鮮半島の南東で辰韓を建国します。
彼らは戦闘的で他国を侵略して領土を奪う凶暴な民族ですが、人数が少なかったために侵略は行わず、現地の民へ鉄器・青銅器の製作や馬の哺育などの文明を教えることで君臨して租税を得る封建社会を築きます。辰韓の地で、秦からの流民と元から居住していた倭人や韓人が融合・混血したのが、後世の物部氏・秦氏だと思われます。

倭国のルーツ

1世紀、現在の博多にあった委奴国の王が漢の光武帝に朝貢を行い、「漢委奴国王」の金印を貰います。これが、中国の文献に始めて登場した倭国のルーツです。
2世紀、北部九州の倭面土国の王の帥升等が後漢の安帝に朝貢を行います。

タニハ王国

2世紀末頃、朝鮮半島では北部に建国された高句麗が勢力を拡大して南へ侵略し、馬韓や辰韓は半島南部に追いやられると共に、辰韓から日本の丹波地方へ移民が渡来します。
彼らは、先進の鉄器や潅漑の技術を持っていたため、出雲と越(北陸)の中間で未開拓だったタニハ(丹波・丹後・但馬)の河川沿いを開拓して、タニハ文化圏を築きます。その後、タニハ王国は辰韓や伽耶諸国との交易にて繫栄します。
後に天照大御神となる太陽信仰や、古代イスラエルと共通の神話を日本に持ち込んだのが、このタニハへの移民だったと思われます。

邪馬台国

そして3世紀、北部九州の邪馬台国連合の女王卑弥呼が魏へ朝貢を行い、鏡や金印を貰います。これが、魏志倭人伝です。
当時の日本列島には、北部九州の邪馬台国連合の他にも、南九州には熊襲の文化圏があり、出雲・吉備・タニハ・北陸・ヤマトには異なる文化圏があったのです。だから、邪馬台国時代の遺跡は全国の各地にあり、考古学からは何処も邪馬台国であるように見えるのです。

天日槍の渡来・九州物部

3世紀後半、タニハ王国の但馬へは、天日槍こと、辰韓王の子のヒボコ王子が渡来した様です。これは、4世紀中盤の息長垂姫による新羅討伐への布石となります。
加えて、辰韓や伽耶と北部九州との鉄器・青銅器などの交易が盛んになり、北九州の遠賀川流域にも移民が渡来した様です。これが九州の物部となり、後に畿内のヤマト王権へ多大な影響を与えます。

初期大和王朝

3世紀後半、丹波のタニハ王国から村雲という王子が奈良盆地へ南進し、ヤマト文化圏を形成していた出雲族を服属させ、纏向に初期大和王朝を建てます。これが日本神話では天孫饒速日尊の葦原中国への降臨として描かれている事跡です。
ただし、当時はまだ奈良盆地全域が服属していたわけではなく、同程度の経済力を持った豪族の集落は各地にありました。その中で纏向は、先進の鉄器・潅漑技術や巨大古墳の信仰を持った異質の集落だったでしょう。彼らの農業生産性は非常に高く、他の豪族は彼らの先進技術と信仰を競って取り入れました。
こうして奈良盆地から古墳文化が日本全国に広まり、古墳時代が始まりました。武力による全国統一ではなく、高い農業生産性を齎す先進の鉄器や潅漑技術と、高い豊穣を齎す巨大古墳への信仰がセットになった流行なのだと思います。

第一次物部東征

3世紀末頃、九州の側の物部氏・秦氏が、奈良盆地の方に農業生産性が高い裕福なクニができていることを知り、東征を行いました。この第一次物部東征では、物部氏は初期大和王朝の勢力を服属させるまでには至らず、現在の交野市に橋頭保を築くまでに留まった模様です。

日向王国

その後、九州の遠賀川流域には馬が伝わり、馬の哺育を行って他地域へ供給する拠点になっていましたが、遠賀川流域だけでは平野が不足していました。そこで、物部氏の分家が大分の宇佐一帯を治めていた部族と血縁を結び、宮崎の西都原へ進出しました。西都原は阿蘇山の火山灰に覆われた地で、今でも水耕稲作は困難ですが、広大な草原で馬の哺育には非常に適した地だったのです。これが日向王国です。
この頃に、馬の哺育と共に、騎馬民族が天孫降臨の神話を日本へ持ち込みました。

第二次物部東征

日向王国の物部氏は、九州南部の熊襲の部族長を殺害して服属させました。これが記紀の景行天皇紀に記されている、日本武尊による土蜘蛛征伐です。
その後、日向王国の物部氏は、奈良盆地の裕福なクニを手中にすることを望み、宇佐の巫女が治める海人族と連合し、瀬戸内海から奈良盆地へ東征。これが、記紀では神武東征として描かれた事跡で、実際は4世紀中盤の出来事でしょう。

第二次物部東征は成功し、奈良盆地で初期大和王朝を中心に緩やかに連合していた出雲・タニハ系の豪族たちは、紀伊、伊勢、尾張、美濃へ逃れますが、これが7世紀の壬申の乱で大きな役割を果たします。

物部氏は現在の大阪府に住み着いて河内王朝を建てました。物部氏と共に東征した宇佐や淡路や阿波の海神族や、但馬から援軍として参戦した部族は奈良盆地に留まり、新たな豪族となりました。
支配層は入れ替わりましたが、奈良盆地で農耕を行う民衆に変化はなく、紀元前に出雲からの移民が開拓したヤマト文化圏の後継です。

息長垂姫の新羅討伐

4世紀中盤の356年、朝鮮半島の辰韓では王族の血が途絶え、臣下が新羅を建国すると共に、辰韓王の血を引く丹波のタニハ王国との交易が途絶えました。
それに対し、タニハではヒボコ皇子の子孫の息長垂姫が激怒し、辰韓王の血を引く自分こそが旧辰韓の地の富を得るべきだと、新羅討伐へ出兵します。新羅王は息長垂姫が辰韓王の子孫であることを認識し、戦火を交えることなく降伏して以降の倭国への服属を誓い、中国の唐と倭国の双方に朝貢するコウモリ外交を行った様です。息長垂姫の倭軍は、旧辰韓の地を北から侵略していた高句麗とも戦火を交えましたが、敗北して北方の領土は諦めた様です。
この息長垂姫による新羅討伐が、記紀では神功皇后の三韓征伐として記されています。399年から404年頃の出来事です。

河内王朝の栄華

第二次物部東征後に河内に住み着いた物部氏は、この息長垂姫による新羅討伐によって旧辰韓や伽耶から多量の鉄を得て、その鉄から造った鉄器や馬を用いて当時の大和川流域を大規模に干拓し、現在の大阪平野に相当する広大な農地を築いて、4世紀後半から5世紀にかけて栄華を極めました。
古市・百舌鳥の巨大な古墳群は、この時代の河内王朝の遺跡です。

越前王国

その頃、大阪平野での河内王朝の栄華と並行して、福井平野でも王国が繁栄していました。息長垂姫による新羅討伐によって新羅(旧辰韓)や伽耶から多量の鉄を得る交易が盛んになりましたが、その際の日本からの最大の交易品が、新潟県の姫川流域(糸魚川市)や海岸で採れる翡翠だったんです。そこで採れた翡翠の原石を小舟で福井まで運び、そこで宝石に加工して朝鮮半島へ輸出することで、福井に朝鮮半島との交易の一大拠点として越前王国が栄えました。
越前王国の歴代の王は、朝鮮半島南部の支配権を中国の王朝に認めてもらうために、宋へ度々朝貢しています。これが倭の五王(413~502年)です。

継体天皇と蘇我氏

6世紀初頭、栄華を極めた河内王朝では、大王の血統が途絶え、臣下の物部氏と大伴氏は、地方に残っている大王の血筋から天皇を迎えることを画策しました。
そこでなぜ、河内王朝で実権を握っていた物部氏や大伴氏の中から次の王を選ばずに、地方から大王の血筋を探したのかを奇異に感じますが、これは現在の北朝鮮と共通の、北方騎馬民族に由来する血族血統主義の思想なんです。君と臣は天地開闢以来別であり、君は天子から続く男系男子の血族血統によってのみ継承されるもので、臣が君になることは決してあり得ないと。
そこで、北陸の越前王国で栄華を誇っていた蘇我氏のオホド王に白羽の矢を立て、ヤマトの大王となるよう要請。蘇我氏は説得に負けて承諾し、ヤマトへ移住して、オホド王がヤマトの大王となりました。これが継体天皇です。
蘇我氏は出雲族とタニハ族が融合した豪族だと思われ、これは第二次物部東征にて物部氏にヤマトの地を奪われた出雲・タニハ族が、ヤマトに復帰し、宿敵の物部氏と対峙するという、因縁の構図になります。

蘇我氏と物部氏の対立、丁末の乱

蘇我氏と物部氏は、オホド大王の時代は共に大王を支える協力関係にありましたが、その後は蘇我氏が皇室との姻戚を深め、権力を握っていく構図になります。越前王国から来た蘇我氏は出雲・タニハ族の血を引くと思われ、第二次物部東征後に紀伊、伊勢、尾張、美濃に逃れていた出雲・タニハ族も、蘇我氏の台頭と共に復権していきます。
6世紀中盤になると、蘇我氏と物部氏の対立は深まり、587年、ついに蘇我馬子が物部守屋を襲撃して勝利し、物部氏は没落しました(丁末の乱)。
実権を握った蘇我氏は、百済や隋・唐から先進の文化や統治制度などを積極的に取り入れ、飛鳥京、17条憲法、冠位十二階など、大和朝廷を形作っていきます。

百済系中大兄皇子(天智)のクーデター、乙巳の変

その頃、朝鮮半島では北の高句麗が勢力を拡大して南下し、倭国・日本は息長垂姫による新羅討伐以来に半島に持っていた直轄地の任那を失うと共に、百済からの移民が続々と渡来していました。
大和朝廷では、百済救済を強く訴える百済系の勢力と、半島の紛争からは距離を置こうとする蘇我氏とが対立。645年、百済系の中大兄皇子が蘇我入鹿を暗殺する乙巳の変が起こり、蘇我宗家が滅亡し、百済系の勢力が権力を掌握しました。

白村江の大敗戦、百済系天智天皇の権威失墜

その後、新羅と唐に侵略されて百済は滅亡しましたが、百済系の天智天皇(中大兄皇子)が反対意見を押し切り、大和朝廷は百済復興の為に大量の軍を朝鮮半島へ派兵。白村江の戦いにより、あえなく大敗戦。無益で無謀な戦争を強行して大量の人命を失い、天智天皇は権威を失墜しました。
その後に高句麗も新羅と唐の連合軍に敗れ、朝鮮半島を新羅が統一すると共に、倭国・大和朝廷と朝鮮半島の間の交易が途絶え、北部九州の倭国は衰退して大和朝廷の支配下に入りました。

大海人皇子(天武)の反乱(壬申の乱)

天智天皇の崩御後、子の大友皇子が政権を引き継ぎましたが、672年、そんな百済系の政権に対して、迫害を恐れて吉野に逃げていた大海人皇子が反乱を蜂起。それに蘇我宗家を滅ぼした百済系の勢力に不満を持っていた、紀伊、伊勢、尾張、美濃の元出雲・タニハ系の豪族が呼応し、大友皇子を倒して政権を奪取。これが壬申の乱です。

古事記、日本書紀の編纂開始

壬申の乱に勝利した大海人皇子は即位して天武天皇となり、貢献した元出雲・タニハ系の豪族を厚遇すると共に、豪族間の権力争いで衰退した国を建て直そうと、天皇へ権力を一極集中した統治へ大改革を実施。
その一環として、国を統一する歴史観を醸成するため、古事記、日本書紀の編纂を命じました。このような経緯で、日本はアマテラスの天孫である神武天皇から万世一系に続く天皇が治める国なのだという国体の思想が形作られたのです。

天武天皇崩御、百済系藤原氏の復権

壬申の乱で一度は衰退した百済系の豪族ですが、天武天皇崩御に再び勢力を盛り返し、乙巳の変の黒幕であった百済系の藤原氏が皇室との姻戚を深めて実権を奪取しました。
天武天皇の崩御後にも続いていた古事記、日本書紀の編纂作業には、実権を握った藤原不比等への忖度が働き、大和朝廷を形作った蘇我氏の偉大な業績を聖徳太子の業績にすり替えた上で、蘇我氏を悪役にして乙巳の変を正当化。さらに、百済系のクーデターであった乙巳の変の目的を、蘇我氏によって腐敗した政治からの大化の改新だと、虚飾が行われました。

古事記、日本書紀の成立

天武天皇が編纂を命じてから約40年後、藤原氏の復権により虚飾を加えられながらも、アマテラスの天孫から万世一系に続く天皇が治める神の国という国体思想をまとめた古事記、日本書紀が完成しました。

あとがき

こうして概要を俯瞰して見ると、古事記、日本書紀は、正しい歴史書だとは言い難いけど、決して天皇が国を支配するために創作した虚偽の歴史ではなく、日本国の建国に参加した各豪族が保有していた神話や歴史を、巧妙に繋ぎ合わせて万世一系にまとめたものだということがわかります。藤原氏にとって都合が悪い蘇我氏以外は、殆どの豪族の神話や歴史が尊重され、巧妙に組み入れられています。
これは、争いを好まず、豪族間で権力争いを行っていては国が発展しないとの天武天皇の強い思いによるもので、世界に誇れる民族融和の思想でしょう。
この国体思想は、形骸化しながらも現代まで延々と続き、江戸末期に幕藩体制を批判するアンチテーゼとして国学派が発掘して賞賛。以降、明治新政府の正当性の根拠として国家神道化され、2度の世界大戦へ国家総動員するための洗脳に利用されたため、皇国史観と言う歪んだ形で妄信されました。
一方、敗戦後には反動がおき、古事記・日本書紀は戦争を招いた危険思想だとして教育現場では否定され、代わって日本は大陸や半島から文化文明を学んだ後進国で、たびたび周辺国を侵略した悪い国だという自虐史観の歴史を教育しているのが、悲しい現状です。
私は、そのような思想的偏向のどちらにも与せず、あくまでも理系的な視線から、なるべく客観的な証拠に基づく合理的な推論による謎解きを心がけていきたいと思います。

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