三法師と徳川家康ー私自身見たり見なかったりだが大河ドラマ『どうする家康』を擁護してみる2

1.「三法師」織田秀信と徳川家康ーある歴史的事実を可能な限り淡々と語る

織田秀信は、幼名である「三法師」と言った方が通りがいいかもしれない。信長の嫡男信忠の嫡男、つまり信長の嫡孫にあたる。言うなれば、織田家の「プリンス」である。実は、本能寺の変では、信長だけでなく、嫡男信忠も、明智方に討たれている(個人的には、信長最大のしくじりだと思っている)。彼は、物心つく前に、祖父と父親を喪ったのである。その時点で、波乱万丈の人生が予想されるが、そこは今回省く。問題は、彼が成人した後に起こった関ヶ原合戦である。

関ヶ原合戦で、秀信は、経緯はよく分からないが、豊臣方に立ったのである。関ヶ原合戦の結果は、ご存じの通りである。秀信は、関ヶ原ではなく、居城であった岐阜城で徳川方を迎え撃った。かなりの激戦だったようだが、秀信は、最終的に、多くの重臣を失い、降伏することになる。

おそらく、この時点で、織田本家は再起不能と言ってよい有様であった。さらに、敗軍の将となった秀信にも「処刑」の声は少なくなかった。しかし、家康は、彼を助命した。秀信は、「高野山への流罪」を命じられた。

2.突然、大河ドラマ『どうする家康』について、熱めに語る

今年の大河ドラマ『どうする家康』は、視聴率が振るわないらしい。こと、戦国時代を舞台にした作品としては、平均視聴率が最下位らしい。しかし、個人的には、そこまで「つまらない」作品とは思っていない。そもそも、大河ドラマ「絶対」の時代など、とうの昔に終わっており(あったのかも疑問だが)、その中では健闘している方だと思う。

以前似た趣旨で投稿したが、ドラマとしての内容に関しても、歴史的には「端役」「負け犬」たちにしっかり見せ場を作っていること、少なくとも「連続ドラマ」としての整合性は保っていることなどは、個人的に評価している。最近で言えば、家康の忠臣鳥居元忠(と妻)の壮絶な最期は、観続けていた視聴者の胸を打ったに違いない(この投稿を書き始めたのは、実は少し前なんです)。

では、何が問題なのだろうか。一つは、先ほど私が述べた「長所」をひっくり返してみれば分かる。

「端役」「負け犬」たちに見せ場を作るということは、「群像劇」としては素晴らしいが、「主役」徳川家康、さらに彼の天下人としての歩みが、やや薄味になってしまったきらいがあるとも言える。実際、私の母は、誰が誰なのかよく分からず、観なくなってしまった。

また、「連続ドラマ」の整合性を保っていることが、逆に「物語としての迫力」を欠く面があるのかもしれない。ジェームス三木氏脚本『独眼竜政宗』とか、ヒットした大河ドラマは、おそらく整合性以前に、視聴者を引き込む展開があったのだろう。

ただ、そこを気にしなければ、視聴者としては、十分楽しめる仕掛けがなされていると思う。先ほど挙げた、鳥居元忠夫妻に限らず、「最期を迎えた者」の散り際には、視聴者をうならせる演出が仕掛けられていたと思う。

3.大河ドラマ『どうする家康』について、もう少し個人的に語る

それでは、他にどんな原因が考えられるだろうか。一つは、視聴者に強く「植え付けられている」徳川家康のイメージを崩すには至っていないことであろうか。これ自体は、私自身感じていることである。「1武将の」成長物語として観るならば、確かに面白い。しかし、「徳川家康」という固有名詞がつくと、印象が変わる。確かに、こういう家康像はありえたと思う。ただ、無意識の部分で、何か受け入れられない部分があるのだ。この無意識の抵抗(たぶん今まで入れてきた知識)が、私だけでなく、視聴者に二の足を踏ませているのかもしれない。

もう一つは、それを助長するように、専門家たちからの「評価」が低いようだということである。確かに、私からしても、それはありえないだろう、という点がなかったわけではない。以前の投稿でも触れたが、家康の最初の正室「瀬名」が先導した「同盟構想」は、専門家が指摘するまでもなく、歴史的にはまずありえない。じわじわと勢力を伸ばしつつあるとはいえ、まだ小童にすぎなかった一領主の奥方が、そんな「壮大な」構想を先導できるとは思えない。

ただ、私としては、「物語としてはあり」なのではないかと思っている。まずは、発想がそもそも面白い。歴史上「陰の存在であった」女性が、ここまで「壮大な」構想を描いたのだと「すれば」、個人的には痛快である。もう一つは、私の疑問に「物語として」応えてくれたことである。それは、最初は三河一国さえ掌握できなかった家康が、どのタイミングで「天下人みたいな存在」を最初に意識するきっかけになったのか、という疑問である。瀬名の構想は、その時点では、おそらく家康の器をはるかに超えた「壮大な」ものであった。もちろん失敗には終わるが、家康が壮大な構想を抱き始めるきっかけとなった「ような」演出がなされている。

5.本論ー伏線回収

ようやく、本論にたどり着いた。私が語りたかったのは、物語上、「瀬名の構想」とともに最もツッコまれた箇所である。それは、「家康は織田信長を恨んでいた」という筋書きである。最終的には、史実通り、明智光秀が信長を討った。しかし、家康もまた、打倒信長を虎視眈々と狙っていたという筋書きになっていた。

実際、信長が討たれた「本能寺の変には黒幕がいた」説は、いまだに根強い。その一人として、家康の名前も挙がっている。とはいえ、これは、やや「トンデモ説」として、多くの専門家は捉えているようだ。家康が今川家のみならず武田家を滅ぼせたのは、ひとえに信長のバックアップがあってこそであり、家康が信長を恨むはずはない、という趣旨の主張だ。

確かに、その通りであろう。特に、武田家との争いは、表に現れない部分で、熾烈を極めていたという。信長の後ろ盾なしには、戦い抜けなかっただろう。納得の主張である。しかし、そう言い切っていいのだろうか。今述べているのは、「大名としての」家康である。「個人」家康はどう考えていたのだろう。その点を証明する史料は、ほとんどないように見受けられる。おそらくそこは、専門家であっても、なかなか踏み込めない領域である。

ただ、私には、家康が、「個人的には」必ずしも織田信長を好きでなかったのではないか、と思える歴史的事実がある。それが最初に触れた、関ヶ原合戦後の「三法師」織田秀信に対する、家康の処遇である。

敗軍の将となった織田秀信は、処刑は免れたが、高野山に流罪となった。ここの点だけ触れると、家康の「恩情」と感じるかもしれない。しかし、家康が秀信に命じたこの「処遇」は、ある意味では「処刑」よりも残酷なものであった。問題は、流されたのが「高野山」であったことである。

織田信長が仏教勢力をはじめとする「旧勢力」に厳しかったのは、よく知られていると思う。比叡山焼き討ちや、本願寺との長年の争いは、有名かもしれない。実は、あまり知られていないが、高野山もまた、信長から迫害を受けていたのだ。当然、高野山の人々にとっては、信長は許し難い存在である。そこに、織田の「プリンス」が流されてくる。「プリンス」秀信がどのように扱われたかは、想像に難くない。「プリンス」秀信は、高野山に流されて数年後、26歳で短い生涯を閉じることになる。人生を儚んでの自殺とさえ言われている。

話を戻そう。「高野山への流罪」が、秀信にとっていかに残酷な仕打ちか、家康が分からなかったわけはないと思う。秀信はすでに岐阜城で多くの重臣を失っており、大名としては、もはや再起不能に近い状態だった。

それならば、家康は、わざわざ命を助けたのに、秀信に、そのような「残酷な」仕打ちを命じたのか。これは完全に憶測の域を出ないが、家康はやはり「個人的には」信長が大嫌いだったのである。秀信に対する仕打ちは、その無意識での意趣返しなのだ、と私には思える。

そういう意味では、ドラマの筋書きは史実を無視したものとは、決して言えないと思う。「個人」家康を見抜く目に関しては、「脚本家の目」の方が鋭かったのかもしれない。

6.さいごに

私が驚いたのは、日本史で一番有名と言ってもよい徳川家康に関しても、まだまだ新たな定説が出ているということである。専門家としては、これら「新しい定説」がドラマに反映されてほしいと願うのは、当然だと思う。しかし、「史実」と物語は、やはり別物なのだ。視聴者はおそらく、これが「史実」だと思って観てないはずである。専門家は、ドラマで歴史に興味を持った視聴者に、書物などの形で「史実」を提供できるように努めることで役割を全うできるはずだ。

大河ドラマ『どうする家康』は、いよいよ大団円に向かっている。私としては嬉しいのが、豊臣秀頼が凛々しい貴公子として成長したことである。私個人は、真田信繁(幸村)の陰に隠れがちだが、豊臣秀頼は大将にふさわしい器を持っていた青年だと、「一方的に」思い込んでいる。姿だけ見せた「ドラマ版」豊臣秀頼は、「北川」淀殿でなくても喝采を送りたくなる凛々しさを感じさせた。「史実」は決まっているけど、「ドラマ版」豊臣秀頼には、大暴れを期待している。

最後に、話はずれるが、家康は、大坂夏の陣で秀頼母子を葬り去った後、逃がされていた秀頼の息子(母は千姫ではなく側室)を処刑している。「太閤殿下の孫」が、太閤殿下の死後20年たたないうちに、刑場に消えたのである。「三法師」織田秀信、さらに遡れば「暗殺された鎌倉幕府三代将軍」源実朝もいる。「天下人の孫」というのも、つくづく因果なものなんだなと思う。

※文章の完成度:無念。個人的に納得いっていない。










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