私は生まれながらの敗者であるーその「好奇心」が命取り

致し方ないことだ。気づくのが遅すぎた、というべきであろう。私は、自分の志向から、生まれながら敗者になるべく、生きてきたのだ。確か、「負けに不思議な負けなし」というようなことを、故野村克也氏が述べていたと思う。まさに、その通りだ。

私は、好奇心が強い方だと思う。それ自体は、悪いことではないと思う。しかし、好奇心こそが、「私を敗者へと導く」要因だったのだ。私は、私なりに好奇心を示してきた。それなりに、多くのものに触れてきた、とは言えるとは思う。それ自体は、全く問題ない。むしろ、良いことだと思う。しかし、私には、もう一つ、押さえがたい欲求があったのだ。

それは、「表現したい」という欲求である。そう、私は「創造する」側に回りたいのである。しかし、好奇心に任せて、様々なものに触れる中で、どうしても悟らざるを得ないことがある。私には、「創造する」資質が決定的に欠けている、ということである。

たとえば、哲学である。私は、哲学「する」側に回りたいのである。しかし、悲しいかな、私には、哲学「する」資質はないと言わざるを得ない。私の思考は、かなり厳密さに欠ける。そのこと自体は、痛感せざるを得ない。私は、「読者」にはなれる。しかし、「哲学者」にはなれないのである。

これは、あくまで例えである。ただ、「哲学」に、他の要素を当てはめてもほぼ同じである。私が好奇心を示すものは、「私のもの」にはならないのである。それに気づくのが、遅すぎた。そういう意味では、やはり「私は生まれながらの敗者」なのである。

もちろん、「創造する」側になれないのならば、「創造する」側を支える「裏方」に回ればいいと思う。それにより、成功した人物は、いくらでも挙げることができるだろう。しかし、そうするには、私の「表現欲」とやらは強すぎるらしい。

「創造者」には、そもそもなれない。それなのに、「創造者」になりたいという欲を捨て去れない。自分でもわかっているのに、諦めることができない。好奇心自体は、悪いことではない。しかし、その結果として、私は、「中途半端な」姿勢を貫いてきた。その中途半端さこそが、「私が生まれながらの敗者である」と断言せざるを得ない要因である。

改めて言うが、「負けに不思議な負けなし」なのである。自分でも、本当に「愚か者」だと思うけど、私は今日も「負けるべく」生きているのである。

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