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本に愛される人になりたい(60) エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」

 学生時代、本書の翻訳者・日高六郎さんのご自宅に何度か呼んでもらい、数多くのお話を聴かせて頂きました。京都の白川通今出川の交差点からさらに東へ、銀閣寺の方へ行き、鹿ヶ谷疏水道に並行してある通称・哲学の道あたりにご自宅があったかと記憶しています。当時は無手勝流にそして学際的にジャンルを超えた書物を貪るように読んでいた頃で、「私の考え」などまとまることなどない野獣のような私でした。そんな私を快く受け入れ、色々なお話をして頂いたことに感謝しています。
 大上段に大鉈を振るうようでなく、話し相手と向き合い、その本人と言葉を紡いでゆこうとして頂いたことは、今でも記憶に残っています。
 ところが、日高さんが翻訳した、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」は、とても激しくそして厳しく、ナチスドイツ誕生へと向かった世の中の社会的心理の動きを捉えています。
 「われわれの社会においては、感情は一般的に元気を失っている。どのような創造的思考も-他のどのような創造的活動と同じように-感情と密接に結び合っていることは疑う余地もないのに、感情なしに考え、生きることが理想とされている。「感情的」とは、不健全で不均衡ということとおなじになってしまった。この基準を受け入れたため、個人は非常に弱くなった。かれの思考は貧困になり平板になった。他方感情は完全に抹殺することができないので、パースナリティの知的な側面からまったく離れて存在しなければならなくなった。その結果、映画や流行歌は、感情にうえた何百万という大衆を楽しませているような、安直でうわっつらな感傷性におちいっている」(エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」東京創元社)
 本書は1941年に発行されました。ナチスが政権を掌握したのち、1934年にアメリカへ移住したユダヤ人の彼は、ナチスの思想に雪崩を打つように共感しナチスドイツを生み出した人々、つまり大衆が、何故自由から逃げ出して、そうした権威主義へと突き進んだかを、本書で考察しています。
 民主主義国家(当時のドイツではワイマール政権)で自由であることを大前提とされた人々は、やがて自由が怖くなり、不自由な方向に雪崩をうった、つまり逃げ出したように思われます。
 2023年のいま、本書を改めて読んで見ると、世界が同じような方向に進んでいるように見えます。個人としての思考が停滞し、自由闊達に生きていた部分の伝統が、束縛が伝統だと敢えて勘違いすることで、自分の自由な思考を止め、自分なりの感情なども抑え、ただただ「安直でうわっつらな感傷性におちいっている」ようにも受け取れます。この数十年、映画やテレビドラマや小説などのトレンドがこの感傷性を前面に押し出すことで人々を喜ばせているのは、かなり危険だなぁと、実は私は感じています。そこでは、「感情的」=「暴力的」という方程式もあるようです。優しくて感傷的であることが、「あなたの良さです」と教訓を垂れ流すストーリーに出会うと目眩を起こしそうにもなります。
 誰かが作り出した大鉈を振るうような勇ましい言葉に取り込まれることなく、顔と顔をつき合わせ、ゆっくり語らいながら、自分の腹の底に落ちる言葉のカケラたちを溜め発酵させてゆき、慌てることなく自分なりの言葉を紡いでゆくような時代になればと願うばかりです。中嶋雷太

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