見出し画像

暴言戯言、直言に怒言(9)「コンテクストがズレる人々」

 コンテクストとは、会話の文脈として良いかと思います。会話をするとき、通常はある文脈を話し相手と共有し、その文脈に添って話をするのですが、日々耳を澄ませていると、コンテクストをずらして話す人が多くなってきたような気がしています。疾病では、統合失調症といった精神疾患があるようですが、ここでは精神疾患を患われている方々の話をするわけではありませんので、誤解なきようお願いします。
 さて、唐突に「面子」(めんつ)の話です。社会学者のアーヴィング・ゴッフマンは、著書「儀礼としての相互行為」で、この面子について書き始めます。「俺の面子はどうなるんだ!」と言うアレです。古今東西、私たちはどうやら面子というものに囚われており、面子を保つ文化さえ作り出していて、現在の日常生活を顧みても、大小様々な面子を保つ文化が見え隠れしています。
 さて、面子を保つ文化の一つとしてあるのが、話をズラす=コンテクストをズラすことではないかと考えています。例えば、最近の事例ですが、報道番組などを見ていても、警視庁が刑事案件としてはっきり公表している「霊感商法」がコンテクストの重要な論点で、この一点が最大の問題点なのですが、政治家にしろコメンテーターにしろ、そして外野でつぶやく人たちにしろ、この論点を無視したりそれを忘れたかのように、話題に上がる現象面だけをとらえて良い悪いという言葉を投げかけ合っているように見えています。もちろん、コンテクストをズラさない方もいらっしゃいますが。
 ある論客の場合、わざとコンテクストをズラし「鋭い意見」だと周囲に思わせるテクニックをお持ちで、コンテクストをしっかり踏まえていない人は、その論客の言葉に幻惑されるようです。この人の場合は、議論をしているのに討論にすり替えるのがいつもの手でもあります。話すことを生業にしている人たちは、その生業のために作り上げた顔を保ちたいものだから、まさに面子を守ることに必死になっているようです。刑事案件に直接・間接に関与したことがコンテクストのさらなる論点なのですが、言葉を数多く発話し、世の中がワサワサすれば良いという感じになってきたなと訝しんでいます。
 インタビューに応じる議員が吐く言葉も、本来議員としてあるべき言葉ではなくなってきた感があり、会話の文脈に沿っていそうな雰囲気を醸し出しながら、実は記者との会話になっていないようです。記者は記者で、「そこで突っ込んで訊いて欲しい」というのがなく、記者としての面子を保っているようにも見えます。
 面子を保つための文化にも色々あり、京都の言葉のように、遠回しに否定しながらも、相手に痛烈な嫌な思いをさせないというのもあり(後々、効き目がありますが)、一概に面子を保つ文化を貶す気はありませんが、社会問題化している話を、面子を保つため、コンテクストをズラすのは困ったものです。
 私が、社会に通じる言語をこれから学ぶ子供だとして、こうした大人たちの言葉の使い方に慣れてしまうのだと思われ、どのような大人になるのかと心配です。因みに、「記憶にございません」(ロッキード事件で流行った発言)ゴッコをしていた小学生は、いま50歳を超えたはずです。きっと、「記憶にございません」で良いという言語感覚を身につけたのだと思います。中嶋雷太

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?