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プロダクション・ノオト−「場のストーリー」編(2)

 小編映画『Kay』/『終点は海』(下北沢トリウッドにて併映上映中)に向けていたプロダクション・ノオトから逸脱し、「場のストーリー編」を綴りはじめて今回は2回目となります。
 映画を観る「私」は、母親の胎児のころから様々な外部情報に囲まれていたはずです。母親の心臓や肺の音、胃腸の消化音や筋肉や骨の動作音、そして母体の外から届く様々な音。ここでいう音は振動としても良いと思います。つまり、母体の内外から届く振動が羊水という環境(場)に現れるという最初の体験をしたはずです。もちろん、大人になって会得するであろう言語やはっきりとした知覚は、胎児の私にはありませんが。
 ここで胎児の話をしてから、仮想話に移ります。
 私が、音(振動)も色彩も何もない、そして重力もない中空の中心にいるとします。それを場とすると、私は必死になり、これまで生きてきて意識・無意識で会得してきた体験から、その場というのを懸命に読み取ろうとするはずです。懸命に私が置かれた場、そして私自身を確認する作業に懸命になるかと思います。(私がぼーっとしたいと願っていたならば、最高の場なのかもしれませんが)
 やがて、その場に小石が巻かれ、岩が置かれ、松が植えられると、私は懸命にその場を読み取ろうとします。これまでの経験値の中から読み取るための言語や記号や、さらに感覚的なものを総動員してだと思います。
 禅寺の石庭を前に、しばし腰を下ろしていると、そのシンプルな場の記号(小石、岩、松など)や空や空気の流れの中に存在する私は、禅寺の石庭という場のストーリーを楽しみ始めます。
 話は飛んで、映画館という場を、上述のような切り口で語り始めれば、映画と観客の関係が見えてきます。
 映画は、現像されたフィルムのままだったり、最近ではDCP(デジタル・シネマ・パッケージ)というハードディスク的なもののままであったりしても、そこには物質としてのフィルムやDCPが置かれているだけです。ところが映画館という場で上映されるやその映画は映画館という場にさらにストーリーを加え、観客の前に立ち現れます。ここで気をつけるべきは、映画館という場だけで、すでに石庭と同じ場のストーリーが存在しており、そこに重ねて映画というストーリーが、場のストーリーに追加されることです。
 映画館という場のストーリーがあり、さらに映画というストーリーが追加され、観客が楽しむわけです。 中嶋雷太


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