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本に愛される人になりたい(65) 無着成恭編「山びこ学校」

 このnoteで、「綴る」という動詞をよく使っています。理由は、大学生になったころ「山びこ学校」に出会い無着成恭さんの著書を読んで以来、「書く」というよりも「綴る」という方が私に馴染んでいると考えたからです。
 将来ジャーナリストになりたいと意気込んで入学した大学、大学院での6年間はかなり突っ込んでジャーナリズムや関連する学問を学際的に勉強していましたが、やはり基本になるのは◯◯学ではなく、とても日常的な「綴り方」だと確信していました。
 どこかから借りてきた誰かさんの言葉を無思慮に使うのでもなく、また心から思ってもいない薄っぺらな思考回路に漂う血の通わぬ言葉を使うのでもなく、心の底に漂う感覚(クロード・レヴィ=ストロースの「野生の思考」)に根ざす言葉で自分の力で考え、そして表現するべきだという確信です。
 この「綴り方」という考え方は、大正時代に始まる生活綴方運動に遡りますが、戦時下では軍国主義的な考え方が子供たちの心の奥底まで染み渡っており、本来あるべき自分の日常感覚にある言葉で綴るべきところが、どうやら軍国主義という価値観を借り受け、それが自分の言葉だと綴られた経緯もあるようです。いわゆる少国民教育の影響です。
 自分の心の中にある言葉は、言葉である以上社会の影響をうけているものですが、そこにある価値観が本当に受け入れても良いものか否か…等々、個々人が考えねばなりませんから大変です。
 とはいえ、頭に浮かんできた言葉は自分の言葉には違いありませんから、それをそのまま綴ることもまた大切なことかもしれません。
 本書に収められている、無着成恭さんの「あとがき」と、戦後の日本綴り方の会結成に参加した児童文学者である国分一太郎さんの「解説」を読むと、1956年に発行された本書について厳しい意見も語られていて、綴り方というものの問題点も見えてきます。個人的には◯◯主義という色で綴り方を染めて欲しくはないとただただ願っています。
 こうして本書のことを考えていると小学校の作文を思い出します。例えば読書感想文。精緻にストーリーを分析し、論理だった言葉で美しい文章を書くのが作文で良い点数をとるコツでした。物語のなかで主人公が重い悩みむことを、まるで精神分析学者のように、こと細かに腑分けし説明文に置き換える「作業」のようでした。実は、私はそれが大嫌いで、敢えて抗っていました。この高評価される作文技術はやがて、小説や映画などのエンタテインメントにも応用されていったようで、人間の喜怒哀楽のダイナミズムよりも、「主人公の精緻な心理描写」を描けば素晴らしい作品だとする不可思議な表現に良い点をあげ良い点をもらおうとする文化が脈々と続いているようです。
 私たちの日常生活の喜怒哀楽の近くにある言葉とはとても感覚的なもので、時に荒々しく時に無骨なはずで、いちいち細かく考え込むはずがありませんし、美しく論理だったものではないはずです。
 書き綴ることで、そうした言葉を整理して考えるというのはとても大切なのですが、書き言葉にする時に、そもそもの荒々しく無骨なものを消さぬようにしたいものです。
 今夏、たまたま本書を書棚から取り出し読んでいて、そういえば無着成恭さんはどうされているのかと調べたところ、本年7月21日にお亡くなりになっていたのを知りました。ご冥福をお祈りいたします。中嶋雷太

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