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<執筆近況です2>

 この半年あまり、家に籠る生活が続いており、何人かの知人から「生きてるか?」と怪しまれていますので、noteにて時々こうして近況をお伝えしております。
 ちょうど昨年の夏あたりから、二、三作品の物語を並行して書いてきており、一作品を書き終えるやまた新しい作品にとりかかりと、バウムクーヘンの生地を平たく伸ばしたというか、細長いパイ生地をずーっと伸ばしては一層一層新しい生地を繋げているというか…の感じです。
 既にお伝えしているとおり、私が執筆している物語は「小説」というよりも、自分で作りたい・見たい映画やテレビドラマや演劇を物語化(Story telling)したもので、読み終わって頂き、一つの映画・テレビドラマ・演劇を見終わった感覚を味わってもらえればと願っています。
 脚本より前の段階ですが、映像化される元の小説でもなく、ロング・プロットというスケッチのようなものでもない…おそらく、これまで誰も挑戦してこなかった物語り(Story telling)になっていればと願うばかりです。寝物語の上手なおじいちゃんやおばあちゃんの本格的バージョンのようなのかもしれませんね。
 因みに映画『Kay』(監督:鯨岡弘織)は、2018年に書き上げた第一作「春は菜の花」を原作として映像化したものです。
 さて、この一年ほどで十数作を書き上げ、いくつかの作品は、腕試し的に文学賞に応募しました。小説というスタイルのものではないので、それのプロの評価者がどのように評価するのかしないのかは怪しいところですが、ま、あくまで腕試しとして楽しみにしています。
 評価ということでは、昨年も国際エミー賞の審査員となり数十もの海外のテレビ番組を審査しました。ここ何年も審査員として審査眼を養ってきたつもりですが、私の審査眼を「撃つ」番組に出会うと心が揺らぐことが多々あります。あるパターンで描かれたテレビ番組は、たとえ素晴らしい話であってもこちらには響いてきません。テクニックだけの浅薄な臭いがします。一方で、審査眼を揺るがすような視点を持ち、これまで経験しなかった映像文法で描かれた番組は、心深くに突き刺ささるものです。それは、大袈裟に「狙った」描き方ではなく、作り手の思いが深ければ深いほど、そして考え尽くした後に自然と現れるものだと思います。
 返す刀で、私もまた物語る(Story telling)ときには、ドラマを構成するタイルの順列組み合わせ的なものではなく、その表面の奥深くに潜む、とても大切な思いをしっかり見つめ深め咀嚼する作業を欠かさぬように気をつけています。
 建築で言えば基礎工事の設計図でしょうか。
 ここ数年制作に関わっているVR作品(「Clap!」や「Typeman」(監督:伊東ケイスケ)でも、物語の基礎部分の重要性を痛感しており、私はStory constructorとして、これらの作品の基礎部分に携わってきました。
 言葉がたとえ饒舌で巧みでも、そして文法が正確でも、そのさらに下地にある感性に訴える部分の文法が脆弱だと、その作品はひ弱で、著作権期間持つような作品にはならず、世界で楽しまれるような作品にもならないと思っています。あくまでビジネスとしての話とは異なりますが…。
 振り返れば、たとえば、ヘミングウェイの物語り(Story telling)は、ひとつのあり方だと思います。日本では、田宮虎彦の「足摺岬」での復員兵の叫びもまた、ひとつのあり方だと思っています。
 ここ数週間では、noteにて二作品を無料公開しています。
 一つは、エッセイ「赤い土の島」。そしてもう一つは、犯罪サイコ・ミステリー「消しゴムを持つ人たち」です。noteにてカジュアルにお楽しみください。
 これらをnoteで発表し終わり、現在は、湘南を舞台にしたほんわか家族の物語を書き進めつつ、軍事心理学をベースとした犯罪ミステリーにも取りかかっています。頭の中のバランスを保つのが大変ですが、ま、それもまた楽しんでいます。
 また、時々、近況報告させてもらいますね。中嶋雷太

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