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マイ・ライフ・サイエンス(23)「1+1は2だけれど…」

 小学校に入学し算数の時間になると、誰もが「1+1=2」という等式を教わることと思います。
 が、わが父は、やめておけば良いのに、7歳の私が算数の教科書に目を通していると、「1+1は2だけれど、そうでもない場合もある」と余計なことを私に教えてくれました。小さな石が一つと一つあって、それを合わせると二つになるけれども、一つ一つの石がまったく同じなら良いけれど、そんなことはない。だから、「1+1は2だけれど、そうでもない場合もある」と。
 これから算数を学ぼうとする七歳児の私でしたが、父の説明がとても分かりやすくて、すぐに理解はしたのですが、そこからです。私の思考回路は文部省が求めるものからズレてゆき、学年が上がれば上がるほど、先生や教科書に書かれた説明にことごとく疑心暗鬼となり、気づけばわが道を行く小学生になっていました。
 高校生、大学生、大学院へと学びの世界は広がり深まっていったわけですが、世の中の教育や学問は「1+1=2」を求めることが多く、ズレを生かす場面はなかなか訪れませんでした。
 やがて社会人となり、自分の力で生きねばならなくなると、徐々にそのズレゆえに物事がよく見えてきたように思います。
 一円という貨幣価値から、個人という一つの個性まで「1+1は2だけれど、そうでもない場合もある」ことだらけでした。
 とはいえ、「1+1=2」 信仰というべきものが根強くあり、それが理性的であるような風潮さえあります。17世紀後期から18世紀初期の哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコが「新しい学」で示したようにデカルト主義というか理性至上主義的な考え方の危険性など、数世紀経ったものの、残念ながら省みられることない21世紀ですね。
 たとえばAI。すなわち人工頭脳が昨今よくフィーチャーされており、時には脅威でさえあるなどと語られたりもしています。ただ、肯定派であれ否定派であれ、その語り口の多くの視野が狭く浅く感じることがあります。その語り口を冷静になり腑分けして考えていくと、肯定派も否定派も、どうやら「1+1=2」という思考ベースで止まっているように見受けられます。「1+1=2」の呪縛とでも言えば良いのでしょうか。
 2020年春ごろから始まった新型コロナ禍での新型コロナというウイルス一つのとらえ方も、かなり「1+1=2」の呪縛に囚われ、精神的にファナティックに陥っていたように思います。これについては、近いうちに考えをまとめたいと思っています。
 なんでもない等式であるはずの「1+1=2」ですが、それを「1+1は2だけれど、そうでもない場合もある」と考えたときに、自分が生きている実人生が豊かなものに見えてくると思っています。そして、そこから、私たちの21世紀のサイエンスの土壌があるようです。中嶋雷太

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