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メタバース・クリエイティブ・ノオト(6)

 前回、11月20日付けのノオト(5)の末尾に「次回はさらに、作庭師の世界観を覗いていきたいと思っています。そこにこそ、VRの世界でとりくむべきクリエイティブの基本が根ざしているからです。」としました。
 
 この一ヶ月、いくつかの物語を並行して書き続け、またVR作品用の資料収集や読み込み作業を行ってきて、気づけば12月。毎年恒例の京都墓参のついでに、VR作品やいくつかの物語執筆用の取材を兼ね、京都の町をふらりふらりと散策しました。
 ちょうど京都に到着した日、知人の佐藤宏之さんが関わられた「フォーブス・ジャパン2023年1月別冊meta communication/メタバース 覚醒する能力と五感」が発売されたので、京都駅近くの本屋さんで購入し、自宅から持ってきたユヴァル・ノア・ハラリ著「ホモ・デウス」と合わせてホテルの寝物語に読む機会を得ました。
 墓参を終えたあとの、数日は抹茶をいただいたり、禅庭を訪れたり、京都に実家があったころにはあまり訪れなかった場所を訪ね歩きました。「明日はどこを歩こうか」と考えていたところ、前職(WOWOW)の知人が関わっている「アンディ・ウォーホール展」が京都市京セラ美術館で開催中だということで訪ねてみました。
 およそ数日の京都滞在でしたが、「meta communication」や「ホモ・デウス」を読み、抹茶や禅庭を訪れ、さらにアンディ・ウォーホールの作品群に出会うという、一見異次元のような体験が重なり合いました。
 前回のメタバース・クリエイティブ・ノオト(5)で「作庭師の世界観を覗いていきたいと思っています。そこにこそ、VRの世界でとりくむべきクリエイティブの基本が根ざしているからです。」と末尾に綴りましたが、そこに入る前に、今回の重層的な体験から得たものをここで語っておこうと考えた次第です。
 アンディ・ウォーホール展では、すべてが初体験でした。
 彼の作品は雑誌や書籍上では知っていましたが、現実的に目前にそれが存在することなどありませんでしたから、驚愕を持って楽しんできました。特に、観客が実体験できるブースがあり、サイケデリックな照明が少し懐かしいテクノっぽい音とともに壁に照射され、体験者の影がそこに照らし出されるという作品に、私は子供になった気分で楽しんでいました。
 その夜。あれは何だったかと考えていました。そのブースに入るまでの私のリアリティがあり、そのブースでアンディ・ウォーホールを体験する私のリアリティがあったわけです。人は不可思議な体験、つまり体験するまでにあった私のリアリティと、体験後の私のリアリティは異なり、身体として新しいものを体験した結果がありました。
 翌日、私はある茶道会館を訪れ、美術品を堪能し、お抹茶をいただきました。
 静かな冬の日差しが窓辺に揺れ、私は両の手で茶碗を包み、点てられたお抹茶を一口、また一口と味わっていました。自動販売機で買う炭酸飲料水やカフェで楽しむコーヒーとは異なるお抹茶の世界がそこにありました。ただただお抹茶をいただくだけでしたが、濃くも爽やかなお抹茶をいただく私の時間は、時計の秒針とは異なる時を刻んでいたように思います。
 その後、禅庭を訪れました。夢窓疎石が作庭したお庭は、嵐山に連なる山並みを背景に、お庭の時を刻んでいました。枯れ始めた木々、石、岩…。地勢に争うことなくとても自然に作庭されたその禅庭に降り立つ者を包み込む世界がありました。
 これ以外にも、路地(京都では「ろーじ」と発話します)や町内ごとにあるお地蔵さんなど、あれこれ眺めながら、この異なる体験が一つの答えを宿しているのではないかと考えつつ新幹線に乗車し東京の自宅に戻ってきました。
 旅の疲れ(京都滞在中に約50キロ歩いたので)が癒えぬまま、その翌日、書斎の机でぼんやり書棚を眺めていた時でした。ジャンヴァティスタ・ヴィーコの本が目に止まり手にとりました。私が20歳の頃から何度も読み返している「世界の名著33 ヴィーコ」(中央公論社)の序文「私のヴィーコ」で、翻訳者の清水幾太郎さんはこの新しい学について、次のように語っています。
 「…神が作った自然というリアリティの世界、人間が作った数学というフィクションの世界、それに加えて、もう一つの世界がある。ヴィーコの『新しい学』は、もう一つの世界の姿を明らかにするために書かれたものである。もう一つの世界は、一方、神でなく人間が作ったものであり、他方、フィクションでなくリアリティである」と。
 人間が作り出すリアリティ。
 感覚的な表現になるかもしれませんが、デジタルの世界はあくまで手段であり、そこに人間が関わっている限りはアナログの世界に包含されるように思われました。ただ、人間が本来持つ全感覚は、過去から続くルールに囚われてしまい去勢されているようです。ただ、手段の一つであるデジタルの世界に触れることで、本来持っていた全感覚の一部でも取り戻すことができるはずです。これは、私のアンディ・ウォーホール展での映像ブースでの体験だと思います。もちろん、お抹茶を喫したり、禅庭に身を置くことでもまた全感覚の一部でも取り戻すことが可能なはずですし、中世から現代に至るまで、私たちは知らず識らず、全感覚の一部でも取り戻してきたのかもしれません。
 「フォーブス・ジャパン2023年1月別冊meta communication/メタバース 覚醒する能力と五感」でもまた、冒頭に佐藤宏之さんは香道を巡る身体性について語られています。
 アンディ・ウォーホール展での映像ブース後の私、お抹茶を喫した後の私、そして禅庭の後の私……そしてメタバース空間で何かを体験した後の私…。
 メタバースでクリエイティブに取り組む際に、その観客(体験者)にとって、全感覚の一部でも取り戻せれば、そして観客(体験者)自らが失っていた全感覚の一部でも使い取り戻せればと願うばかりです。
 さて、次回こそ、「作庭師の世界観を覗いていきたいと思っています。そこにこそ、VRの世界でとりくむべきクリエイティブの基本が根ざしているからです。」中嶋雷太
 

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