本に愛される人になりたい(26) 「野生の思考」
一秒は一秒で、チクタクと時間は過ぎていくのが時間というもので、過去はビッグバンから未来は地球が太陽に飲み込まれ、さらにその先まで、チクタクと時間は正確に刻まれる…というのが、私たちの常識になっているようで、理性主義というかデカルト等から繋がる近代からの考えかたです。(「デカルト的時間」とでも呼びます)
では、人の日常感覚はどうかというと、デカルト的時間とは別の時間感覚もあり(「野生の時間」とでも呼びます)、私たちは近代以降、「デカルト的時間」と「野生の時間」の二つを抱えて生きているように思います。
デカルト的時間が世に広がる以前は、太陽や月の動き、そして季節の変化が、私たちの時間感覚(暦)で、生物としての人間は、それらの自然の変化と密に生きていました。その太陽暦や太陰暦などもないころには、部族などの間で、部族なりの暦感覚、そして時間感覚が養われていたはずです。
学生時代、文化人類学にハマったきっかけは、クロード・レヴィ=ストロースの「野生の思考」(1962年)でした。言語学から記号論、記号論から現象学、現象学から構造主義や文化人類学……と興味の幅が広がりはじめていたころに本書に出会えたのは幸運だったのかもしれません。
本書以前に、18世紀のイタリアの哲学者、ジャンバッティスタ・ヴィーコの「新しい学」(1725年)に偶然出会っており、その流れで「野生の思考」との出会いという幸運を引き寄せられたのだと思っています。この「新しい学」では「数学的に物事を捉えるだけではなく」というのが基本的な主張だと思います。いわゆるデカルトから続く理性優先主義的な考え方だけではダメだと言っているわけです。ヴィーコの「新しい学」については中公文庫でお読み頂ければと思います。
先に書いた「デカルト的時間」だけでなく「野生の時間」について世に問うたのが、18世紀のヴィーコであり、その血脈から続く20世紀のクロード・レヴィ=ストロースで、世に問われ続けてきた理由は現在、そしてこれからもとても大切なことではないかと思っています。
理性を優先して形作られた現代社会には、すでに様々な綻びが見え始めています。最近、知人と話すなかで「なるほどなぁ」と思ったのは、ミネラル分がほとんどない野菜が増えてきたらしく、どれだけ食べても人間にとって必要な鉄分などが野菜から得られないということでした。大量生産のせいか、それとも土壌が痩せてきたのかは分かりませんが。あるディーラーに勤めている知人とEVの話をしていて、ざっくり計算すると、日本の自動車をすべてEVにする為には、原発をかなり増設しなければならないという結論に達しました。自然を大切にする為に自然を大規模で破壊する可能性を増やすということですね。
便利になり、商品が多種多様に販売され、私たちの生活は一見豊かになってはいますが、さて、それは豊かなのかどうか、今一度、思考回路を止めて、静かに深く考えるべきなのかもしれません。
もちろん、理性主義のおかげで、ビッグバンから続く宇宙史から現在までの姿を見ることができたのも事実としてありますので、神様が人を作った的な考え方を良しとする極端な反理性主義に組みするのは危険です。
「野生の思考」を読むたびに、私の思考回路の電源を抜き、静かに深く物事をとらえる目線を、取り戻しているようです。中嶋雷太
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