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プロダクション・ノオト(7)

はてさて、今回で第七回となる我がプロダクション・ノオトです。4月9日から下北沢トリウッドで日本初劇場公開となる小編映画『Kay』/『終点は海』(両監督:鯨岡弘識)に向けて、書き綴っています。また、3月18日には渋谷・100Banchで先行上映試写会イベントもあり、試写会後のトークでは私も登壇することになりました。エグゼクティブ・プロデューサーとしてではなく、あくまで「映画を見たあとで」感じる映画、考える映画の話と、メディア論の話になるかと思っています。このプロダクション・ノオトをお読み頂いている方は、どこかで読んだなと思われると思いますが、トーク前の私の頭の整理として、ここにトークのベースとなる考え方を書き綴ってみたいと思っています。まず、「映画を見たあとで」何を感じ考えるのかは、とても大切なことだと思っています。制作者側は映画を作るまでの苦労話になり易く、映画評論家は過去の映画と比べたりして映画単体を議論し易く……けれど、これまでのところ、ある映画はどのような人が見てくれたのか、どのように感じ考えてくれたのかの話は、映画の専門家はあまり語ってはくれませんでした。仕事柄、そして映画好きな者として、様々な映画の本を読んできましたが、いわゆる観客の目線の話は、深く語られなかったかと思います。例えば、戦後少し経ってから劇場公開された「ローマの休日」や「七人の侍」を見た観客はどのような人たちなのだろうかと考えると、分かりやすいかもしれません。その観客の男性のほとんどが、戦場に駆り出され、武器を持たされて、人を殺してきたはずです。女性は、自分の父親、夫や子供が人を殺してきたはずで、さらにすべての観客が戦争体験者だったはずです。その観客たちが「映画のあとで」、どのように感じ考えたのか……残念ながら、資料となるものは残っていないので、戦後史の研究者が、当時の映画雑誌や新聞などを綿密に調べてくれるのを期待するしかありません。こうして、戦後何万本もの映画が劇場公開され観客は様々に、何かを感じとり考えたのかと思っています。「イージー・ライダー」「ゴッド・ファーザー」「スター・ウォーズ」「タイタニック」「千と千尋の神隠し」……。「映画のあとで」無数の物語が、観客の心のなかで生まれてきたのは、映画というメディアの底辺に流れる大河なのかもしれません。一滴一滴の小さな物語が、泉となり小川となり、そして大河となって海へと注いできたというイメージがあります。二つ目のメディア論も、このプロダクション・ノオトで簡単に書き綴ったと思いますが、改めて。今の時代はYouTubeだメタバースだと、デジタル・ビジネスが活況でその波に乗る人たちは、過去のメディアは古くてダメだ的な発想にあるかと思います。が、例えば、子供たちを見てみればよく分かるとおり、絵本、公園遊び、テレビ…様々なメディアで遊んでいます。私も、テレビだけでなく、YouTube見たり、キャンプに行ったりし、様々なメディアを選択して生きています。つまり、メディアは横並びに選択肢が増えてきたというのが正直なところではないかと思っています。Netflixが凄いといっても、テレビで宣伝しているのも、選択肢としてテレビはこれからも存在するはずです。但し、私が子供のころのマスメディアは、インターネットなどなく、スマホもなく、テレビ、ラジオ、新聞と雑誌ぐらいでしたから、選択肢は限られていました。さて、インターネットの普及、そしてスマホやタブレットというインターフェイスの普及により、私たちの選択肢は多義に渡り増えました。これからの映画というメディアも、劇場へ行く楽しみがある以上、廃れることはありませんが、劇場というメディアを中心に、どのような他メディア展開を、どのようなタイミングで展開するのかは、プロデューサーの手腕にかかっているのかと思います。選択肢が増えた横並びのメディアが、観客(消費者)の前にあると冷静に考えられるか否か……未だに「私は映画を頑張って作っているのだ!」的な肩肘の力を抜けば、自ずと21世紀が見えてくると思います。中嶋雷太

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