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GeneSourceTree -1

第一話 神様

 神の存在を仮定する必要がないってホーキング博士は言った。
 でも、僕の人生にはどうしても神様が必要だった。
 僕には、ただただ、信じられるものが必要だった。
 それなのに探しても探しても、神様はどこにもいなかった。
 
         ◯

 周りの大人たちはみんなこう言う。
『君はどんな人間にもなれるんだ』
 確かにその通りだ。僕はどんな人間にもなれる。誰にでもなれる。
 だけれど、もし誰にもなりたくなかったら、いったい僕は何になればいいんだろう?

 ある日、僕が思っていたことを父さんに訊いた。
 父さんは人を裁く立場の人間だった。だからかは分からないけれど、父さんは誰の意見もできるだけ公平に聞こうとすることが多かった。
「誰にもなりたくない、か…。たしかに、生きる為に必要な労働はもう、必要ないだろうな。だから、もちろん、お前が誰にもなりたくないというなら、それでも生きていける」
「そうでしょ…?なんでみんなこぞって誰かになりたがるの?」
 すると、父さんはすこし俯いて、何かを考えるそぶりを見せたあと、僕の方をまっすぐ見た。
「昔の小説の中に、こんな台詞があるんだ。『自己実現なんて厄介な言葉を誰かが持ち出さなければ、我々は幸せでいられたのに』って」
「自己実現?」
「私たちが生まれるずっと前、二百年以上前に出来た言葉だ。元々は心理学者が使っていた用語で、最適化された自己というような意味だ。しかし、その小説が書かれた時代には、自己実現という言葉は本来とはすこし異なる意味で使われた」
「異なる意味って?」
「平たく言えば、『自分が何者かであるという認識を得る』という意味だ。名前がついている何者か。役名がある人間。とるに足らない存在なんてまっぴらで、自分にとっても、他人にとっても重要な人間。そういう何者かになることを自己実現と呼んでいた」
「それが、みんなが誰かになりたい理由なの?それってそんなに大切なことなの…」
「そうだよ」
「たとえ、自分じゃなくなっても…?」
「確かにその通りだ。自分じゃなくなったら、自己実現とも呼ばないな」
 そう言って、ため息とも呼べないような、静かで深い呼吸をした。疲れているように見えた。
「それでも、その味を知ったら後戻りはできないだろう?私たちは、何かにならなければという焦りがあるんだ。名前がある誰かにならなければいけない。もちろんこの自己実現なんて言葉が流行り出した時は誰でもそれを達成できるわけではなかった」
「でも今は…」
「そうだ。私たちは、それを簡単にする魔法を手にしてしまった。そしてそれは手放せない。誰も、自分を惨めだなんて思いたくないだろう」
 この時僕はなぜ、自己実現をしなければ惨めなのか分からなかったが、僕は父さんが言ったことに頷いた。
 父さんは自分が言ったことを心底信じているようだった。だから、それに反対して父さんが困るのを見たくなかったからだ。
「お前が誰にもなりたくないのは自由だ。名前が欲しくないというのも。だがな、もしお前が誰にもならなければ、誰もお前を見はしない」
 僕は自分の掌に爪が食い込んでいることに気がついた。
 いつのまにか、拳を握りしめていた。
 
         ◯

 土を踏み締める感触がする。強いけれど不快じゃないにおいを感じる。
 こういう、たくさんの種類の生物がいるところでは、なぜだか無性に悲しい気持ちになる。きっと、表面に息づく生命の足元に何重もの死を内蔵しているからだと僕は思った。
 淘汰されたものやそのまま寿命をまっとうしたもの達が死屍累々とその地面に積み重なっている。
 そんな気持ちをよそに、語りかけてくる声があった。
「なあ、なんで俺たちはこんなところにいるんだろう?」
 地域コミュニティの教育プログラムで僕らは森の中にいた。
 この手の教育プログラムは珍しいものだった。なぜなら、授業はすでに膨大なアーカイブが電子の海に存在していて、個人の性向に最適化されたカリキュラムを組むシステムも十分過ぎるほど存在しているからだ。
 今まで対面での実施が必須と言われていたコミュニケーションスキルですら、バーチャルのカリキュラムに組み込まれている。
 けれど、いつになってもリアルでのコミュニケーションは重要と考えられているらしい。大人たち曰く、というよりまだ権力を持っている地域コミュニティのお偉いさんたち曰く、『視覚も聴覚も温度も触覚もバーチャルで補えるが、匂いはまだ補えない』とのことだ。そしてコミュニケーションには匂いが必要だと。
 友達はきっと『馬鹿の戯言だ』と言うだろう。でも、僕は一理ある話だと考えている。例えばネズミは同種の心理状態を相手の体臭でかぎ分ける。人間も似たような部分はあるだろう。
 必修として僕らは同年代のリアルのコミュニティに一ヶ月間属することになる。お互いの匂いを感じるために。そしてご丁寧に大自然とも触れ合えるようなプログラムだ。そういうもろもろの思考を省いて僕は言った。
「教育プログラムに文句言ったってしょうがないでしょ?」
 僕のつれない返事を聞いた友人、ハルはうなだれたように言う。
「それにしてもいつになったら目的地に着くんだろう?」
 このプログラムではグループごとに簡単な課題が与えられる。そのいずれも大自然と人間に触れ合えるようなものだ。
 そして僕らには、5人グループで、でっかい荷物を背負って森の奥にあるログハウスに行くことになっていた。
 僕はハルと一緒に歩いていたが、他のグループのメンバーは各々バラバラに距離をとりつつ移動していた。そのくせ目的地は一緒だから同じ方向を向いている。なんだか変な感じだ。
 歩いていて思考を持て余すのは退屈だったので、ハルに声をかけた。
「ガタカっていう映画をしってる?」
「なにそれ?」
「昔の映画」
「映画って平面の映像のこと?」
「そう。平面の映像で物語をやってるんだ。観たことない?」
「ないよ、そんなの。だってつまんないくせにやたら長いもん」
「まあね。それに、誰が観ても同じ物語だものね」
「そうだよ。せめて観てる人の行動で物語を分岐させるぐらいはしてほしい」
「でも、僕らがよく遊んでいるゲームだって、映画が原作のことが多いんだよ?」
「ふうん。それでなんの話だっけ?」
「ガタカ」
「そうだった。それ、どんな話なの?」
「生まれる前に遺伝子をデザインされた、優秀な人間と、普通の人間の話。持てるものと持たざるものの話」
 木漏れ日が目の前を流れている。そこをくぐって僕は話をつづけた。
「主人公は持たざるもの。視力は低いし、肺活量はないし、おまけに寿命は30歳くらい。なのに宇宙飛行士を目指すんだ」
「それって……」
「ふふ。可笑しいよね。だって今はそれと真逆の世界なんだもの」
 ハルは何がおかしいんだ?という表情をしていた。もしかしたら当然かもしれない。僕だって、笑って見せたけれど、本当は可笑しくもなんともないから。
 GeneSourceTreeは神様の仕事を奪った。
 先天的な天命はデザインされた人類にもはや必要ないものだった。
 なぜなら、もう誰も、生まれながらの才能に困らないから。
 僕は自嘲的な自分の言動が恥ずかしくなって、誤魔化すように言った。
「さっさと行こう。周りの子たちはどんどん進んでいるよ」

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