オリンピックという表舞台での活躍の表に出て来ない「心」

オリンピックで、たくさんのトップアスリートが、必死に競技をする姿が連日、放映されています。

個人的には、メダルを獲得した選手より、残念ながら逃してしまった選手が気になります。特に世界ランクもトップクラスで、メダル獲得に有力視されてきた選手が、まさかの不本意なパフォーマンスで本番を終えてしまう過酷な現実に。

ある雑誌にあった行動し続けることの難しさについての一節です。

「こうなればいいなあと思う人が1万人いたら、具体的にこうしたいと思い浮かべる人が千人、それを実行する人が百人、そして、それを続けられるのが1人。」

どの世界でも同じですが、思い立ったことが実現に至るまでには、紆余曲折、思いも寄らない障害や葛藤が付きものです。

トップアスリートのハイレベルなプレーには、様々な事情で競技を続けられなかった数多の人々の夢が託され、その思いの後押しがあるのだと思います。

だから、国中の人々の注目を集めて、心を動かすのでしょう。

続けることに、成功という約束など何処にもない条件下で、日々の地道な課題と向き合う日常は、進む決断も辞める決断も自分自身で、基本的に暗闇のなか、孤独な歩みを進めるようなものだと思います。

しかし、この歩みを止めず、やり切った姿に人々は感動を覚え、称賛し、未知の可能性を信じる力をもらえるのだと思います。

例えば、人には、2面制があり、決して綺麗事だけが頭の中にあるわけではありません。辻褄の合わないことをモヤモヤ抱えながら生きています。

つまり、人には、表と裏があり、心の奥底では、弱さを抱え、恐怖を感じ、楽を好んでいます。「うら」と辞書で引いてみて下さい。「心」とあるはずです。

オリンピックという表舞台で活躍するために、表に出て来ない「心」とどう折り合いつけ、歩みを進めてきたかを選手のプレーに垣間見ること出来るのです。

部活動に打ち込む生徒も同じように、それぞれが心と向き合いながら、日々揺れ動いているのだと思います。時には、涼しい顔で帰って行く友達を横目に練習に向かう自分がいて、そこには確かに損得とは別の価値観がある気がします。

サボりたいという自分も、やらないと気が済まない、やるべきだという自分もあり、その折り合いを付けながら、生徒は成長していくのでしょう。

部活動では、自分が得するとか損をするとかをベースにした価値観と別の領域にある価値観で人は動くということも学べるのです。今回のオリンピックでたくさん目撃したと思います。

個人的には、試合後のインタビューに応える綺麗な言葉の心(うら)はらも感じながら、そこに立つまでの道のりを讃えたいと思います。

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