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何処から来て、何処へ向かうのか

今日はnoteってある意味怖い世界だなと思ったことについて書いてみる。


みんな自由に気楽に創作していいというプラットフォームなので、この前も書いたが私もnote歴9ヶ月くらいになり、自分は毎日投稿をするわけでもないけど、やはりnoteの世界の多種多様な人たちの思い思いに綴られた〝現実は小説より奇なり”のような投稿にもたまに出会うことも多いnoteの世界。


そしてそれらの記事を読むことによって、私自身が喚起される思いというのも沢山あって、時々苦しくなるのも正直あったりする。



最近は私も、上記に貼り付けた記事の中にあるような綺麗事ばかりの文章しか書けていないというのを、えいやっと思い切ってあるタイミングで自分の中のドロドロした膿のような、自分ではいつも考えているのにうまく言語化して表現できないというよりも、やっぱり他人にはあまり見せたくはないような、隠したいような私の内にある本質や悩みなんかもポロポロとは記事の中に登場させるようになった。


そうすると、関連した記事がピックアップされて表示されるのをタイトルが気になって読むことも多い。

そこでやけに目につくワードというのも遍歴があって、楽しいワードだけならいいのに、うわっ、きた!と自分のなかでソワソワドキドキしちゃうような、、でもそれはけっしてワクワク楽しいようなものではなくて、一瞬戸惑うような、きっとそれも私の内にある紙質の一面なんだろうなと思うようなワードで、一瞬目を背けたくなるような、そんな自分の本質にあるかもしれないと予感するものに出会う瞬間がわりとあるこのnoteの世界ってある意味怖いなと感じるのだ。


この「怖い」っていう感情は「恐怖症」と置き換えられる怖さといえばわかりやすいかもしれない。


私もだし、普段日常生活を送る上ではあまり他人に話すことも見せることもない超超プライベートなある意味センシティブな内容も、ここのnoteでは書けてしまうというnoterさんも多いと思う。


あまりにセンシティブな内容なので有料記事にしてという方も多くいらっしゃるけど、無料で読める記事というのも多い。


よくぞ書いてくれました、と思うような赤裸々な描写に人間の本質の哀しさみたいなものを感じる時がたまにあって、にんげんって変な生き物だなぁってつくづく思ったりするし、なんかこう、切ないような、哀しいような気持ちになることがたまにあったりする。


結局私もだけど、えいやっと思い切って晒すと決めて書くことは、自分の浄化のためでもあって、そこにはやはり赤裸々な真実の事実や思いを書かなければ意味がないし、それを匿名性によってだからこそ書ける、晒せることもあったりするわけで、これを実名でFacebookのような場所で?全く同じような投稿ができる人は突き抜けていてすごいなと思うし、実名で顔出しでの投稿はなかなか一段も二段もハードルが高すぎると感じる。


そこはここのnoteのありがたいところで、そういう事情や性分を持って生まれ育ってしまったひとの、自身の浄化と消化のために書かれた文章がわりと少なくはないと感じるし、リンクして表示される記事の中に自分の内にあるかもしれないそれと共鳴することから目を背けなければ新たに自分を深掘り理解するきっかけにもなることは、ある意味しんどくもあるけど、それはある意味では自分の今世の課題として向き合わざるを得ないことにここのnote上で出会えたというのはラッキーなことなのかもしれないとも思える。


ただ楽しいだけのためなのかどうかは最初はわからなかったけど、何か書きたいという私の初期衝動も結局、自分がコンプレックスに感じているようなことをいかに客観視して書いて昇華できるか、そういうことを晒して書くのは怖いけど、実はいちばん書きたかったことなのかもしれないと記事を書いて投稿していくうちに徐々にわかってきたことでもあった。


自分にとっては少なくとも『ものを書く』っていうことは自分とイヤでも向き合って自分の内にあるドロドロとも向き合わざるを得ないことでもあるし、
隠したい、見たくない、認めたくないと思うことが多過ぎるわたしは業が深いのかな、、とか考えちゃったりすると余計気が滅入ってもきたりするところに、この『書く』っていうことの怖さをひしひしと感じてしまうのだ。


        ◇◇


暗いし重いなー、私の記事って、、って思うけど‥‥💦
出し切らないことには仕方ない。だってそれが私の中に確かにあるんだもーん💦💦