見出し画像

郷愁に佇んで

「ふるさと」と云われて思い浮かぶ町がある。
生まれ育った場所でもなく、住んだこともない場所。
それは夏になると不定期で数日間だけ訪れていた、道北の海沿いにある小さな町。

何度かnoteでも触れている母の田舎について書こうと思う。


祖父は栃木の人だったそうだ。終戦とともに樺太からの引き上げ船に乗り北海道の北、稚内へと降り立った。
妻(祖母)と幼子3人を連れて。
少し南下したが内地(本州)へ戻るのは困難と判断し、そこへ永住する覚悟を決める。

祖父母は、私が小さい頃は酪農を営んでいた。
記憶が残っているのは小学校に入るか入らないかくらいの風景だ。

平屋のだだっ広い木造の家と、牛舎とサイロが建っていて、当然たくさんの牛と、牛乳缶を運ぶ荷車を引くための馬が数頭。玄関わきには犬小屋があり、雑種犬のような犬と、猫が何匹もうろうろしていた。飼い猫だったのかは分からない。

広大な敷地で隣なんて遠くにポツリと見えるだけだったから、動物が遊び相手だった。たまに いとこが来ていたけれど、数年に一度夏にしか会わないので、人見知りの私は 少し離れたところで、皆が遊んでいるのを小さく笑って見ているような子どもだった。
そんな様子を見て母はいつも心配し、祖母は「なーんも心配ない。ほっとけばいいべさー」と大きな声で、多分私に聞こえるように言っていたんだと、今は思う。

そんな子だったからなのか、もしくは順番に連れていっていたのかは分からないが、ある日、祖父に連れられて牛乳缶を運んだ思い出がある。馬が引く荷車に乗せられ、舗装のされていない道をガタゴト揺られてお尻が痛かった。帰りは裸馬に少しだけ乗せてもらった。
祖父と二人だけで過ごした唯一記憶にある思い出だ。


だだっ広い平屋の真ん中には囲炉裏があった。夏でも20度くらいにしかならないので囲炉裏は使われていて、そこで搾りたての牛乳が大きな鍋で沸かされていた。
私は乳搾りは苦手だったが、絞りたての牛乳にはわくわくした。その甘さを覚えている。美味しくて、毎年「お店のと違うね」と同じことを言いながら飲んだ。祖母はそんな私の頭を「りっちゃんは めんこいこと言って」とくしゃくしゃにして撫でた。

いつからか祖父が囲炉裏の横に布団を敷いて、横になっていたのを覚えている。肺が悪いとしか聞いていず、私が小学生のうちに亡くなった。

祖父が寝込んで間もなく祖母は離農し、駅にほど近い町営住宅に引っ越している。道路向かいに公園があり、徒歩数分で海岸に出る場所で、動物はいなくなったが時間をつぶすには苦労しなかった。海がない地域で育ったので、子どもの頃、唯一見ていた海。近くにある沼地では自由にシジミ貝が採れていた時代で、持って帰ると祖母がお味噌汁にしてくれた。ご飯は決まって甘納豆入りの赤飯だった。



まだ国鉄が走っていて、まず札幌駅まで行き、そこから道北まで行く。着く頃は既に日暮れ。
ただひたすら長い長い列車の旅だったが、退屈はしなかった。一両ずつ切り離されていく列車が楽しくて、最後の一両に乗っていられるのも楽しくて。

札幌を出発したときは混んでいた列車も、だんだんと人は降りていき、空いてきた頃に私たちは残る1両の列車へと移動する。
最後の列車が切り離される頃には人もまばらで、いつも私たち家族と数人だった。
母に声をかけて私は席を立ち、ひとつのボックスシートを独り占めにする。
数センチだけ開けた窓に顔を近づけて風を受け、アニソンを小さく口ずさんでいた。風の通るボックスシートは私だけの空間で、夕闇の中そこだけがぽっかり浮いて旅しているような感覚になり、その時間が私は好きだった。

徐々に夕風の中、微かな潮と深い草の匂いが混じりこんでくる。そして北のにおい。ああもうすぐだな、と駅に立つ祖母の姿が浮かんだ。

「りっちゃん、遠いとこさ、よく来たねえ~」
今も祖母の声が耳の裏に響く。



でも降り立っていた駅や町の記憶がどの時期のものだったのか、酪農のときか団地のときだったのか、今は曖昧に混在している。

そして高校生頃からの記憶があまりない。
夏休みがいろんな用事で合わずに母はひとりで行くこともあったから、私はほとんど顔を出していないのかもしれない。



次に思い浮かぶのは娘を連れている記憶。
出産して数年間専業主婦だった頃に、母の仕事の休みに合わせて久しぶりに祖母に会いに行った。JRは廃線となっており、沿岸バスに乗って。ひ孫の顔を見せたかった。

あの日の、ひ孫ふたりと町の中を散歩している祖母の写真が、一枚だけ残っている。

もっと撮っておけば良かったなと思う。私は孫の中で最初に出産したので、祖母にとっては初めてのひ孫だった。一緒に歩いたのは あの日が最初で最後になった。翌年、祖母は倒れその後寝たきり生活を送ることになり、言葉も話せなくなったから。


祖母が入院してからは、一泊の日程でしか行かなくなってしまった。昼過ぎに着き、病院を出たあと祖父の眠るお寺に寄り、叔母の家へ行き畑で採った野菜で夕食を食べ、近くの温泉でお風呂に入り、空き家となった祖母の家に戻って寝る、そういうパターンだった。そして翌朝には出発し町を後にした。


祖母が亡くなってから足は遠のいている。
今も時々思い出す。

当然、私が子どもの頃の風景とは変わってしまっている。沼地は整備されてキャンプ場になり、国鉄の駅はなくなり道の駅ができて、コンビニやコインランドリーができた。訪れるたびに少しずつ便利の波が寄せている。それもまた必要なこと。観光客が立ち止まる町になり、暮らしが潤う。
それでも高い建物はなく空は広い。流れている風のような、ゆったりした空気感も変わらない。それはそこに根差す人の営みのようなもの。そう感じるのは私の気持ちの持ち方なのかもしれないけれど。

住んだこともないのに、私はあの町にどうしようもなく郷愁をおぼえてしまう。
心の奥にそっと染み込んでいる「人」と そこから「繋がる思い出」が存在し、それをふと恋しく感じる場所が、きっとふるさとなのだろう。

祖父が、自らの運命を静かに受け止め、そこに永住を覚悟したことで縁ができた私の中のふるさと。
夏になったら、また日本海へ落ちる夕日を見にいきたい。ふたりの娘と、そこで育った母を連れて。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?