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女のいない世界と男のいない世界ー森喜朗東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長「女性差別」発言ーを考えてみる。わたしのマンガ体験からーその2

今年のお正月、1月2日に放送されたNHK「100分de萩尾望都」は、マンガファンの間で大きな反響を呼んだ。

天下のNHK様に「少女マンガの神様」とまで持ち上げられた萩尾さんであったが、実質的には、世界の頂点にいるようなマンガ家である。その萩尾さんは番組の中で『ポーの一族』のエドガーについて、語っていた。

なぜ「少年」を主人公にするのか。

ー女の子だと木に登るにしても、何をするにも理由や言い訳がいる。でも男の子ならなんでも自由にできるー

主人公は「女の子」ー少女マンガの掟がある中で「女の子」であることに不自由がある。「女の子」では、描きたいことが描けない。それだけ時代には「女であること」への制約があると、マンガ家自身が感じ取っていた、ということだろう。

日本国憲法は、男女同権を謳い、女性に選挙権が与えられ(大日本帝国憲法の時代は女に選挙権はないんだよー。財産権も場合によりしかないんだよー。結婚離婚の自由もないんだよー。)公立学校は男女共学になり、「女も男も同じ人間だ」と教育され、手塚治虫の「ロボットもライオンも人間もみんな同じだ」と高らかに「人権」を寿ぐマンガを読んで育って、天から授かったマンガの才を糧に世の中に出てみたら。女と男は、全然同じ人間扱いではなかった、としたら。

わたしの記憶に頼れば、70年代における「女の子の幸せ」の第一目標は「恋愛結婚」だったと思う。少女マンガも恋愛物が大爆発する。なんでかってえと若い女性にとっての「自由な恋愛と結婚」がリアルに結びつき社会的にも肯定されるのは、この時代になってからだから。

えーなんだそれって? ならどうやって昔の人はみんな結婚してたのかって?

お見合い結婚です。家と家が結びつくのが家父長制の結婚制度なんで。あっちの家の誰々とこっちの家の誰々を結婚させるーと親同士が決めたら、結婚成立。子どもは逆らえません。お見合いたって建前の儀式にすぎない程度の。

だから大昔の小説や映画には、頻繁に「駆け落ち」だとか「心中」だとかが出てくるんだよ。むしろ「恋愛」は「反社会的行為」ですらあった。ドラマチック!

「処女」だとか「初夜」だとか。「結婚前の若い娘が」とか「俺の娘を傷ものにしやがって!」とか。70年代までの雑誌やテレビではよく見聞きされた言葉だった。不純異性交遊ーって言葉もあって。中学、高校では、男女交際禁止がフツーだった。だからこそ少女マンガでは、自由な恋愛物が爆発的に人気を得ることができたのだ。

マンガのキスシーンを見るだけでドキドキする。

そんな色気づいた女の子の時が、わたしにもあった。たった今思い出したけど!週刊少女コミックの一冊に何回キスシーンが出てくるか数えたことがあった。ページに付箋をつけて隠しておいて。自分でもキスシーンのマンガ絵をノートにいっぱい描いていた。もちろん親には見つからないように隠していたつもりだったけど。母に見つかって言い訳した記憶が…蘇った😳 小学5年生くらいじゃないかなあ…。

興味津々だったわけだ。性に目覚めるお年頃なのだから、当然のことだけど。当時の社会状況では、態度に表明することはできない。女の子の初潮の授業だって、こそこそと女子だけで行い、保健の先生は生理の経血を汚物としてみなし「人に見られてはいけません。」と教えた。

それは確かにわざわざ他人に見せびらかすものではないが、生理を汚れとするのは前時代の遺物で間違った教育だ。女は穢れているーなぜなら血を流すからー

性は、未だ、禁忌とされ隠されていた。女の子が自由になるー奔放であるということは「性的に自由になる」こととほとんど同列扱いで、その一点にこそ「男女の格差」が最も隠されていたのだったが。そのせめぎ合いの中に70年代の女性たち、その下の女の子たちは、いたと言ってもいいのではないだろうか。

「婚前交渉」って言葉もあった。婚前交渉って結婚する前にSEXすることです。60年代の大学生あたりから使われるようになったのかなあ。どうなんだろ。80年代ーわたしが大学生になったころには、死語になっていた。てかむしろ結婚とか関係なく「エッチする」のは、当たり前になっていた。たったの10年くらいで世の中は大きく変わっていたのだった。

話を萩尾マンガに戻すと。戦後社会の変容、高度経済成長を経る60年代から70年代にかけての若者文化の台頭の中で、70年代の少女マンガは、むしろ反動的な情勢にあった。恋愛物は隆盛だけれど、それは「自由な恋愛」=「性的な自由」=男女同権と開かれていくのではない。「恋愛」=「結婚」という制度的な落とし込みがあったからだ。

んだなあって、今わかったよ! そうなんだなあ。「恋愛結婚」なんだもん。最終ゴールは「結婚につながるなら恋愛してもいいよ」って範囲の許しだ。

誰からの? 社会からの。大人たちからの?

そういう目に見えないベールの前で、女の子たちは「いかに素敵な男子に好かれるか」ばかりにロマンを抱いてしまうようになる。

メガネをとったら。あれ?君は意外と可愛いね♡

素敵なダーリンに発見されるために。素敵な女の子でいなければならない。そのために必要なことってなあに? それとも不必要なことってなあに?

ー私どもの組織委員会にも、女性は何人いますか、7人くらいおられますが、みんなわきまえておられます。みんな競技団体からのご出身で国際的に大きな場所を踏んでおられる方々ばかりです。森喜朗 「女性差別」発言より抜粋ー

木に登るにしても理由や言い訳がいるー

ただ単に木に登りたい <私>は、どこにいるの?

<私>は、誰かに発見されるためにいるのか

<私>は、誰かに愛されるために、存在するのか

<私>は、誰かに許されるために 存在するのか

#わきまえない女  」とは、そのどれのためにでもなく、ただここに存る<私>のことなのだと、わたしは思うけれど。

その<私>が、そこのあなたの<私>と、どう違うというのか。

そこのあなたが、女であれ、男であれ。どちらでもないのであれ。

木に登りたいと思ったとして。その気持ちに、理由や言い訳は、必要ないよね?


まだまだ続く。














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