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女のいない世界と男のいない世界ー森喜朗東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長「女性差別」発言ーを考えてみる。わたしのマンガ体験からーその1

1962年(昭和37年)北海道に、わたしは生まれた。一番遠い記憶は、小学校に上がる前に住んでいた家のことで、木造の古い建物だったが、玄関先には千両梨の木があり、秋にはたわわに大きな実をつけ、裏庭には四季の野草が色とりどりの花を咲かせるーおとぎ話や絵本のような世界だ。

父は水産試験場で働いており、海は走れば3分もかからない眼前にあり、振り返れば歩いてすぐに登って遊べる小高い山がある。側には海に流れ込む河口があり、ヌッチ川と呼ばれる川の河原でもよく遊んだ。

幼少時代の思い出は、美しい自然、その中で自由自在に遊ぶ喜び、楽しさで埋まっている。恐ろしいことも悲しいこともほとんどない。悲しい記憶といえば、犬猫を飼えない官舎暮らしで、原っぱで子猫を見つけ、餌をあげて箱の中にこっそり隠し、翌日見に行ったときには、もう居なくなっていた。そんなことくらいだった。

そんな楽しいだけの人生が、暗転するのは、小学校も4年生になるころ。いわゆる第二次性徴がおとずれる。思春期に突入ー体型の変化、生理の始まりーつまりは、子どもから大人になるー女性になるー時からだ。

記憶の中では、楽しいことなどほとんどなくなっていく。家の中でも学校でも、友達との思い出も…家族との関わりも…。覚えていることは嫌なことばかりで、後はマンガや本やテレビ番組やラジオから聞こえる音楽やーそういった自分の日常や現実とは関わりのないことばかり。というより、自らそうやって「現実逃避」に没頭していた。そうしなければ、息もできない、死んでしまいそうだったから…。

そうしながら、わたしは、ずっと考えていた。

「わたし」って何だ?

あるいは、

「わたし」が、本当に生きている世界は、どこにあるのだろうか。

(本当の自分は別の世界で生きている妄想)

10歳の頃から熱病のようにマンガを読み始めたが、ある傾向があった。少女マンガでも好きなマンガと嫌いなマンガがあり、当時も今も主流である恋愛主体、中高校生が主役で生徒同士のいざこざや恋の奪い合い、現実にありそうな人間関係を描くマンガは嫌いだった。

例えば『キャンデイ・キャンディ』(水木杏子・いがらしゆみこ)1975年。「なかよし」の大ヒットマンガ。当時、13歳。意地悪ないとこがイザベルが出てくる時点てアウト。マーガレットの『ベルサイユのばら』(池田理代子)『エースを狙え!』も恋愛の葛藤や陰謀、選手同士の嫉妬やいじめの場面があるだけでもういやになる…。

好きなマンガは、『ポーの一族』(萩尾望都)『空が好き!』(竹宮恵子)『ジョカへ…』(大島弓子)『花の美女姫』(名香智子)『花の玉三郎シリーズ』(岸裕子)といった別冊少女コミック系列と別冊マーガレット『遥かなる風と光』(美内すずえ)別冊少女フレンド『銀杏物語』(文月今日子)などなどファンタジー色や優しい風情のある作品。

少年マンガもたくさん読んでいたが、熱心に読んだのは手塚治虫、石森章太郎、水島新司の野球マンガ、ちばあきおの野球マンガ、ちばてつや『紫電改のタカ』松本零士のSF、戦記物。トータルするとSFとスポーツマンガが好きで、学生帽に学ランの少年が主人公で喧嘩したり友情を確かめあったりするー『男組』(雁谷哲原作 池上遼一画)『愛と誠』(梶原一騎原作 ながやす巧画)といったマンガは嫌いだった。 

もう大昔のマンガだから、若い人にはさっぱりわからないだろうけど。同時代を生きてきた方々には、きっとわかるに違いない。このはっきりとした傾向を。

思春期少女のわたしが、好きだったのは「現実を忘れさせてくれるマンガ」であり「現実を超えて新しい世界を見せてくれるマンガ」でもあった。

少女マンガの傾向は、あまりにも明らかだった。少女マンガなのに主人公は少女でない「少年」ばかりだ。当時70年代〜80年代にかけて少年主人公ー男装の麗人オスカルを含めてー「女の子ではない主人公」は大流行していた。

そしてその潮流を生んだのは、他でもない「マンガの神様」と呼ばれた手塚治虫の描いた世界ーそれ自体であり、手塚に見出され、これまた「神童」と呼ばれた18歳で青森から東京に出てきた石ノ森章太郎も同じくである。

多くの場合、手塚マンガの主人公は「少年」でも「男」でもない。『鉄腕アトム』のアトムは、人間ではないロボットだが自我を持つ。アトムは自分のことを「僕」と称し、自分はロボットなのか人間なのかで悩み苦しむ。『ジャングル大帝』の主人公、レオは白いライオン。ライオンの中でも白いことで他と違うと悩み、人間の言葉がしゃべれる特殊能力で悩むー自分はライオンなのか動物なのか人間なのかー

手塚治虫が戦後マンガの王ー神となったのは、この近代自我「私とは何か」ー戦前の日帝時代から引き裂かれ、戦後日本に生きる「日本人のアイデンティティ」について無意識に訴えかける物語を描き続けたからだったが、手塚の後にやってきたSFマンガの巨星、石ノ森章太郎もまた『サイボーグ009』によって「自分の意思によらず人間ではなくなってしまった者」の自我のあり様と悲哀を描いた。『仮面ライダー』『人造人間キカイダー』みな同じである。この世界、この社会から、はじき出された「私」とは、何者か。

大事なことは、そういう(実存しないという意味で)空想的な「私」を描く少年向けのマンガを多くの子どもたちー少女たちも手にとり読んで育ったことにある。

それが可能になったのは、戦争が終わった日本だったから、民主主義国家に切り替わろうとする日本だったから、米軍による占領時代に手塚マンガが大流行できたからー男女共学の時代に日本がなっていたからー日本国憲法に「男女平等」が謳われた、からに他ならない。

手塚マンガを読んで、心を打たれ「わたしもマンガ家になる!」と決意したのは、昭和4年生まれのわたなべまさこであり、15歳でデビューした水野英子であり、戦後生まれの萩尾望都であり、『サイボーク009』が大好きだった竹宮恵子であり、島村ジョーファンクラブ会員1号の西谷祥子らであった。

彼女らが、後のインタビュー等で、一様に言葉にしているのは「マンガとはこんなに自由になんでも描けるのか」「描いてもいいんだ」という衝撃と感動についてだ。てことは、逆に言えば、それまでそういった考えをもたらす表現はなかったのだとも想像できる。

60年代から70年代にかけて、女性マンガ家は、どんどん増加し進出してくる。彼女らの活躍の場のほとんどは少女マンガ誌に限られていた。少女マンガ家=女性マンガ家になる時代。

手塚や石森の影響を強く受けたマンガ家たちは、自らも描きだす。彼女らにとっての<私>とは何かを。

同時代、思春期に入り、揺れ動く自意識を抱えながら。それまで楽しく生きていたはずの地域で、友達とうまくやれなくなり、母親とも違和に陥り、孤独になってしまったわたしが、むさぼるように読んでいたのは、そういうマンガたちだった。

「女の子」ではない主人公 現実の自分とは違う誰か。

「もう一人のわたし」で、ありうべき誰かを。

ではまた翻って。

なぜ当時のわたし、1970年代に生きていた一人の田舎の女の子は、そうまで自分と自分を取り巻く現実、世の中、社会に対して違和感を持ち、現実逃避に勤しまなければならなかったのか。

森喜朗東京五輪組織委員長の「女性差別」発言ー女は話が長いから会議で発言してもらいたくない。わきまえよ(要約)について、考えてみようと思ったら。話が長くなっちゃったよーーーって。仕方ないよ。この問題は、わたしたちの世の中で延々と続いてきた。きっとこれからも簡単には終わらない問題なのだから。 続きます。









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