見出し画像

バレエとおなら

最高級の芸術を台無しにされたら、あなたはどんな気持ちがするだろうか?

先日、オーストラリア国立バレエ団の「ニジンスキー」を見た。

オーストラリアバレエ団といったら、オーストラリアで一番、である。プロフェッショナル中のプロフェッショナルである。

それを、あの世界遺産にも登録されている、オペラハウスで。

ニジンスキーはロシアのバレエダンサーで振付師である。10歳でサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場付属舞踊学校に入学し、18歳でマリインスキー劇場の主役に抜擢された、天才ダンサー。

『まるで空中で静止したような』ジャンプ、中性的な身のこなしなどにより伝説となったニジンスキーだが、晩年は統合失調症を患い、精神病院をたらいまわしにされ、次第に正気を失って行く。

オーストラリア国立バレエ団の「ニジンスキー」は第一幕と第二幕に分かれており、前半は若きニジンスキーの華やかな舞台や恋を描く。彼の代表作の牧神やニンフたちも出てきて、「バレエ」の華やかなイメージそのもの。

休憩を挟んで第二幕は一転、狂気を増したニジンスキーの頭の中では、彼の家族や過去の舞台のキャラクター達が第二次世界大戦の兵士服を来て踊り狂う。銃声にバタバタと倒れる。

そんな緊迫した二幕が始まってしばらく立った時。

彼の頭の中で高笑いするキャラクター達。カオス中のカオス、ライブ演奏のオーケストラもこれ以上ないくらい盛り上がった所で、ニジンスキーが突然意識を失ったのだろう、突然音楽の雰囲気が変わり、それまでハラハラ見守っていたニジンスキーの妻ロモラががっくりうなだれているニジンスキーに駆け寄った。

すわ何事かとホール中の観衆が息を詰めて舞台に集中したその時だ。

「ぷぅぅぅぅううううう」

と少し控えめな、しかしとても間の抜けた音が聞こえたのは。オーケストラはステージのすぐ前つまり私が座っている最後尾からはかなり遠いところ、しかし今の音はかなり近くから聞こえた。

今のは絶対トランペットの音ではない...!と思った瞬間猛烈に笑いが込み上げてきて、唇がむずむずする。隣の友達を見ようと思ったがやめる。ここで目があったら、2人とも大爆笑間違いなし、おなら以上にこの張り詰めた悲しい雰囲気をぶち壊す。

そこまで音が届いたかは定かではないが、ステージではニジンスキーの妻が必死にニジンスキーを正気に戻そうとしている。彼女は真剣に愛する人を取り戻そうとしている。

私はもう、一生懸命に彼女の気持ちによりそって、最愛のパートナーが狂気であることを想像して悲しくなって、屁のことを忘れようと必死になった。全身全霊で忘れなくてはならない。

唇がむずむずしお腹の筋肉がひくひくし、何度も下を向いてこらえながらその場をなんとかのりきり、ニジンスキーの千秋楽は文字通り無事に幕を閉じた。

わくわくと顔を蒸気させた観衆とオペラハウスの外にでると、海から吹く生暖かい湿った空気が頬を撫でる。友達とすごかったね、と語り合ったあと、でもどうしても「ねぇ聞こえた?あのおなら」と言わずにはいられなかった。

あれは絶対、今なら大丈夫!今なら盛り上がっているから!と思って恐る恐る放屁したのだ、とか、周りの人は大丈夫であっただろうか、とか。話しだしたら遅れて笑いの波がやってきた。

プロ中のプロのバレエを見てちゃんと歩けない程笑い転げている人は、見回しても私たちだけだ。みんな上品に、どこか良かったか語り合ったりなどしている。みんな気にならなかったのか?

舞台もプロなら、観客もプロである。

優れた芸術を日頃から鑑賞している人々は、放屁なんかで動揺しない強い精神力と集中力を兼ね備えているのだろう。

私ももっと日頃から精進して精神力と集中力を鍛え直した上で、またオペラハウスでバレエを見たい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?