読書してみて考えた⑪「マチズモを削り取れ」おまけのおまけ

齢50過ぎ、物心ついてからずっとマチズモに埋もれて生きてきたから、思い出そうとすれば、いくらでも話はある。キリがないから、「東京医大入試」の件で一旦最後にしたい。

4月26日の②にも書いたが、高校生の私は医者になりたくなかった。ただ母の強い勧めに負け、高2の終わり頃には医学部を目指すことに。母にしてみれば、かつて自分が帝国女子医専の願書を取り寄せたところ、姉に
「あなたが6年も大学に行って妹がお嫁に行きそびれてしまったら、どうするの」と責められ、4年で卒業できる薬学部にした昭和30年頃の無念はずっとあったよう。(7人兄妹の5女の母、時代柄母と末っ子の妹だけが大学に)
私はなんとかして志望理由をと、渡辺淳一のエッセイや、吉岡弥生(東京女子医大創始者)についての本を読んだりもした。医療に携わる自信はないから、スポーツ医学なら医者から少し離れた仕事ができるかもと、順天堂大学を第一志望とした。
高校までずっと公立ゆえ国公立を目指したが、共通一次(最後の、翌年から共通テスト)が玉砕→「足切り」されたという情けなさ。

1女子はぴったり30人
1989年、私はなんとか現役で医学部に滑り込んだ。1年生100人中、男70女30。二次試験(小論文、適性検査、健康診断)で見覚えのある女子が思いの外いたのが印象的だった。
都内の高校出身の女子達は、お互い同じ医薬予備校で顔見知りだったようだ。入学後しばらくすると、第一志望はどこか、他に合格した学校は?なんて話がちらほらでてくる。
「私は県立医大が足切りで、順天が第一志望、あと東京医大も落ちた」と答えると、
「東京医大は女はとらないよ、順天もうちらの学校より、女子めっちゃ少ないよ」
あー、そうか、だから女子医大は合格(とはいえ補欠で、3月末に入学締め切りました、あなたは~番で入学できません、という葉書がきたのだけれど)したんだ、と。
あの頃は新しい生活に馴染むのに必死で、
「なんだよー東京医大、受験料や赤本代もったいなかったよー、女はいらないって田舎者にも教えてくれよー」
くらいの軽い気持ちだった。今思えば医者同士の繋がり(大学教員も医者が多く、大学OBだったりする)で、いくらでも入試情報はあったのだろう。
数年前に発覚した東京医大の女子差別問題。
当事者としてうすうす気付いてはいたが、実際の報道で知ってしまうと、なかなかショックではある。私は幸い他大学に入学できたけど、これまでに医者の道を諦めた女子が
いったいどのくらいいるのかと想像するだけで気が遠くなる。
東京医大問題が発覚した数年前のこと、
「順天堂も第一志望だったのに、女子はいらなかったんだな、ショック」と私。
「順天は女子はいらないから生物が難しかったんだよ、覚えてる?」と同級生。
そういえば東京医大の生物も変な問題だったな、30年も経って気付く虚しさ。医学部は理科2科目だから男子は化学物理、女子は化学生物がほとんどだったよう。私は物理生物の変人。
何だかんだ言って、高校も男女比ぴったり2:1だったし、入試において「女は不利」は昭和の常識。それが嫌なら女子高に行けば?という感じだったと思う。二次試験で見かけた女子の多くと入学式で再会したのは、今になって思えば、私の大学に女子差別が無い(あくまでも想像)せいだったのかもしれない。その証拠に1学年下は女子40人と、当時の他大学より大分多めだった。

2 2浪男子が多すぎる
マチズモではないけど、東京医大問題では、多浪生が不利になっていたことが発覚。
同級生に1浪は数人、2浪が20人近くいた。3浪や4浪が数人、現役(付属高校からの推薦をを含む)が2~30人と、10人弱の学卒(後述)で男子は70人。とにかく2浪が多いことが不思議で、当人に聞いたこともある。
「1浪は遊んじゃうんだよね。さすがに2年目はヤバいと思ってさ」
当時はふむふむと納得して、親御さんの金銭的負担は大変だろうな、と思ったりしたけど。(現役は自営業やサラリーマンの息子、2浪、多浪は開業医の子がほとんど)
今回東京医大問題が発覚して、同級生に1浪
が少なくて 2浪が多かった謎が解けた気がしている。きっと2浪(以上)は他大学で不利にされたんだろうな。ちなみに女子は現役1浪がほとんど。「女の多浪は肩身が狭い」も十分マチズモ。
でもよ、田舎の開業医には、そこが頼りの患者さんは結構いる訳で、だから跡継ぎは何度も医学部に挑戦する訳で。何年もかけて医学部を諦めた男子受験生も、差別されて諦めた女子並みに相当いるんだろう、とやるせない気持ちになる。

3 学卒の人達
もう時効だろうから個人情報をバラすけど。
薬学部卒、国立工学部、六大学理系、理科大、国立教育大、津田塾etc.
私は学卒のアラサー女性仲良くしていたから上記の学卒の人と過ごすことも多かった。
「○✕大には面接で厳しいこと言われちゃってさ」
「こんなに(10人近く)も学卒がいるなんて、本当にありがたいよ」なんて聞いていた。
皆、一度大学生活や社会人を経験しているせいか我々現役よりも若手の教官と交流したりしていた。例えば在学中に学卒の1人が微生物学教官に頼んで、日本ではみられなくなった感染症をフィリピンに見に行く、というので、私も同行させてもらったこともある。マラリア、破傷風、マニラのWHO、セブ島では青年海外協力隊との食事会。貴重な経験だったから、帰国後に報告会をしたりもした。同級生が現役と一浪男子ばかりだったら、あんなことも、こんなこともなかっただろうな、と思うくらいイベントばかり、色んな出会いのあった6年間だったし、学卒や多浪こそが今流行り?の「多様性」ってやつだと思う。

最後に
本日3月8日は「国際女性デー」、数日前にNHK「男女雇用機会均等法」と浅野ゆう子の番組を拝見した。以前に聞いたことがあったけど、均等法第一世代のほとんどが、仕事を諦めドロップアウトしたという残念な歴史。
実際に同級生の女医達は皆、極端な話、結婚か出産のいずれかを諦めてキャリアアップするか、子育てのためにキャリアを諦め、私のような日雇い労働者になるかの二択 だったと思う。やっと子育て卒業、バリバリ働くぞ!と思ったところで老眼だし、手元もおぼつかなくなり、手術や救急、当直はハードルが高い。65歳過ぎれば日雇いの仕事も無いかも。
何せずっとパートで厚生年金無しだから、体が動く限り働き続けるしかない。先月の新潟県の工場火災、亡くなられたのは清掃員の70代女性数名だったけど、明日の我が身と他人事とは思えなかった。
戦後40年も経ってやっと、1986年施行の「男女雇用機会均等法」。そして現在、あれから35年。
結局のところ「マチズモを削り取れ」より、第1章「男めっちゃ有利」第12章「そうなっているんだから、そうしておけ」で35年。
男は仕事、女は家庭、お母さんが忙しくて子供が可哀想、で35年。
この先10年いや20年で何かが変わるのか?当事者として、諦め感はやや強め。
⑥の「沈黙する知性」でいう、(戦中派小林秀雄の)身体性や「平場の常識」から考えたところで、「現代はすでに歴史の一部」なんだから、何とかしてマチズモを削り取りたいけれど、なにぶん絶賛引きこもり中の主婦の身。夫と息子に「多様性」や「寛大」をコツコツと染み付かせるしかない。
これが現実。







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