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できないことを認める

こんにちは
あーゆるNurseのRieです。
今日の記事はとても個人的なことなので
特にアーユルヴェーダと関連している!と言い切れませんが
自分の思考の整理のために書きます。


今朝の瞑想中に降りてきた言葉
「できないことを認める」

なんだろうな、と思っていました。

結局これは午後に繋がります。

私の祖父は今入院中で、最期の時は近づいています。
入院しているということは、現在の流行病のせいで面会はできません。
私が大阪に帰っても、入院している限り、亡くなるまで会えないんですよね。

それに、経験上、点滴だけで生きることの辛さも伝わります。
体の代謝が落ちている状態で一定量の点滴を入れるのって、
処理しきれない水分が体に溜まったりして浮腫んでしんどかったりします。
でも病院にいたり、施設にいたりすると最低限できることを最後までとなると輸液投与なんですよね。
老衰の場合は、経口摂取がちょっとずつ減る分、自然に枯れるように体の機能が停止していくので亡くなる時や、その表情から見てもすっと穏やかにお亡くなることがお多かったです。
最後まで点滴をしていると、しんどい期間が長いように見えます。
これは私の看取りの経験と、そこからの私の考え方なので、実際に私自身が体で経験していないから想像にはなります。


孫の私にできることは何か考えた時、
在宅看護、看取りだと思いました。

祖父にレイキを送った時、非常に体がしんどい状態、
おばあちゃんのことを心配していることが伝わってきました。

「なんとか自分にできることをしたい!」
「最期の時間を住み慣れた家でおばあちゃんと過ごせたら」
私はこう考えましたが、これは私側のの気持ちなんですね。

午後、叔母に電話で相談した時、
入院中、祖父が一度も家に帰りたいと言わなかったと聞きました。
体がしんどいのも、おばあちゃんのことが心配なのもあるだろうけど
家に帰りたいとは思っていない。

おじいちゃんはとても優しくて思いやりのある人なので、
最初から自分は病院にいる方がいいと考えていたのかもしれません。

家族が危機的状況担った時、しんどそうな状態になっている時
やっぱり自分にできることは何かと慌てるんですね。
ここにエゴが発生するんだと思いました。

結果的に、
在宅看取り、在宅看護はおじいちゃんが望んでいないかもしれないこと、
私1人のマンパワーでは現実的に厳しいとケアマネさんから言われたこと
(祖父の家に住み込み、往診や訪問看護などでなんとかならないかなーと思っていましたが)
一旦このプランはストップになりました。

私は、私の「できないことを認める」ことが必要だから
今朝の瞑想で降りてきたんだなと納得しました。
確かにレイキを送った時、体がしんどいこと、おばあちゃんが心配なことは伝わってきたけど、家に帰りたいイメージはなかった。
だからここは、私の感情の部分なんですね。

できることと、できないこと
人生の中で色々あると思いますが、
できない時も、できないことを認めることって
自分自身の助けになると思います。

今回の場合は、
在宅看護、看取りです。
これはおじいちゃんが望んでいるのではなくて
私が望んだんですね。


その中でも、私は自分にできることをする。

来週から大阪に帰って、しばらく祖母と同居します。
高齢者の一人暮らしがなかなか大変なのと、
もうかれこれ1年くらい大阪に帰っていないので、顔を出してこようと思います。私の拠点は種子島ですが、
『どこでも仕事ができる』ように今の仕事スタイルにしています。
孫としてできることをできる時に!

しばらくはセッションは大阪からする予定です♪




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