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赤と緑の波

 以前まで私はクリスマスぼっち、のドツボにはまる人だった。それは10代の頃、中学生のころからだ。気のおけない友人もいない。クリスマスパーティーの予定もない。心を許せる恋人もいない。デートもない。結婚もしてない。ないない続き。そんな鬱屈した12月25日を10回くらい過ごした。

 なぜってそうネガティヴになってしまうのかと思えば、その時代クリスマスは独りではできないお祭りだったからだ。さらにクリスマスは行事の域を超え経営戦略である。コマーシャルでも、ありとあらゆるコンテンツでも、小さな個人店であってもクリスマスというおとぎ話はよく売れる。誰が売っても誰にでも売れる。なのに私がお金を積んでもできない物だと知って余計哀しくて世間に置いてけぼりにされて、クリスマスソングも嫌って、映画のホームアローンもちょっと恨んだ。

 しかしある年突然人生に「私のクリスマス」がやって来た。二年前のこと。その年に私はシェアハウスに住み始めた。ご近所さん、シェアハウスの改修でお世話になった知人、友人をご飯によく招いていた。クリスマスの時期にももれなく、忘年会でもあり誰でも来てねちょっと遠くから足を運んでくれた人も、という集まりを開いた。途中から来た人ももてなせるようカレーを作った。


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(誰が撮影してくれたんだろう…拝借しました)

 その日すごい大人数のお皿を洗いながら考えたものだ。「あれ、何故だ。クリスマスのことを楽しんでいる」と。そして「なんか、さみしくないね!いいじゃない。」

 クリスマスぼっち時代の私といえば、クリスマスのプレゼントでも、友人でも、恋人でも受動的にそれらがやってくるのを待っていたものだ。サンタクロースがトナカイに乗って落っことしてくれて空から降ってくるもの。友人と恋人なら、パラシュートをつけるんだろうか?

 でもたぶん本当のクリスマスってやつは、与えることから始まるのだろう。自分でプロデュースする楽しみを覚えてしまった私はもう無敵だ。そして誰かの顔を思い浮かべるのだ。「あの人お酒呑めないんだよな、ジュースを用意してあげよう。」「忙しいって言ってたなー。ケーキくらい残しておいてあげたい」「ディズニーのクリスマスの曲絶対嫌いだよね、あの子!わっはっは」

もう赤と緑の荒波で溺れなくて済むんだと思うと、フランク・シナトラの曲もとても美しいものだと感じて嬉しかった。

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